〝文学を武器にする〟『あの本は読まれているか』ラーラ・ブレスコット著/吉澤康子訳

創元推理文庫

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 革命期のロシアを舞台に、医師のユーリー・ジバゴと恋人ララの波乱に満ちた生涯を描いた『ドクトル・ジバコ』。ロシアの文豪、ボリス・パステルナークが著したこの作品は、ソビエトでは反体制的だと見なされたため出版できず、1957年にイタリアで刊行され、世界的に知られることになった。翌年にはノーベル文学賞が授与されることになったが、ソビエト政府の圧力によりパステルナークは辞退している。1965年には映画化もされ、主題曲「ララのテーマ」の美しい旋律は、どこかで耳にしたことがある人も多いだろう。

 『あの本は読まれているか』は、この世界的文学を読ませようとした人たちを描いた異色のスパイ小説である。1950年代のアメリカ。ロシア移民のイリーナはCIAにタイピストとして雇われるが、スパイとして才能を見込まれ、ある特殊作戦に抜擢される。その作戦とは、東側諸国では出版禁止だった『ドクトル・ジバゴ』を、密かにソビエト国内へ流布させ、共産主義国家の非人道性を知らしめるものだった。優れた文学は人の心を動かす。多くの人が心を動かされれば、やがて、それは体制をも動かすうねりにもなるのではないか……CIAはそのように考えた。彼らにとって『ドクトル・ジバコ』は、「単なる小説ではなく武器である。これぞCIAが手に入れ、ソ連国民みずからに起爆させるべく、鉄のカーテンの向こう側に運び込む武器」(訳者)だったのである。

 本作品はイリーナの視点だけはなく、様々な登場人物の視点で描かれている。職場仲間であるタイピストたちからは、大学を卒業しても、与えられる仕事はタイプを打つことだけだったという当時の男性優位の社会状況が窺える。また、イリーナの教育係である女性スパイからは、当時、LGBTは発覚しただけで職場から追われた時代だということを改めて意識させてくれる。そして、パステルナークの愛人で『ドクトル・ジバゴ』のララのモデルとなったオリガ(彼女はパステルナークの愛人だったため、強制収容所生活を経験している)からは、秘密警察の怖さ、強制収容所の悲惨さが窺える。さらにオリガを通じて、純粋すぎる芸術家気質のパステルナークの姿が浮かび上がってくる。

 本作品は史実を元にしている。CIAが行ったこの作戦は果たして成功したのか? 残念ながら、ソビエトが変わるのは、三十年後のゴルバチョフによるペレストロイカを待たねばならなかった。しかしながら『ドクトル・ジバコ』は、当時、密かにこれを読んだ人たちの心を激しく揺さぶったに違いない。その中の一人にゴルバチョフもいたと信じたい。

 作者のラーラ・ブレスコットは、デビュー作である本作品で、2020年のエドガー賞最優秀新人賞候補になった。残念ながら受賞は逃したが、本作品は各界から高い評価を受け、映像化の企画も進んでいるという。