集英社文庫
妻を亡くした夫の30パーセントは、失意で3年以内に亡くなると言われている。一方、夫に先立たれた妻は、これまでの長い束縛から解かれ、カルチャースクールに通ったり、気の合った仲間と旅行を楽しむなど、新たなことにチャレンジして、益々元気旺盛である。
本作品の主人公であるミセス・ポリファックスは8年前に夫に先立たれ、息子と娘も結婚して独立。現在、ガーデンクラブの役員や病院のボランティア活動をしていた。しかし、平凡な生活に飽き飽きしていた彼女は、子供時代からの憧れだったスパイになることを思い立つ。3日後、彼女はラングレーにあるCIA本部にいた。「スパイに応募したいのです」、面会室で応対に出たCIAの若い職員にそう告げると、相手はあんぐりと口を開け、「こんなふうにスパイを雇うことなんてありえない」と断り、かかってきた電話に、これ幸いとばかりに部屋を出て行ってしまった。ところが、ここで運命のいたずらが生じる。カストロの行動パターンを収めたマイクロフィルムをメキシコで受け取り、アメリカへ持ち帰って来る運び役―敵方に顔を知られていないアマチュアの適任な運び役―を探していたCIAのカーステアーズが、面会室で、ぽつねんと座っていたポリファックスを見て候補者だと勘違いし、そして、彼女がカーステアーズの求めていた、いかにも無邪気なおのぼりさんというイメージにぴったりだったので、スパイに採用してしまったのである。
素人の年配女性が、持ち前の明るさと前向きな姿勢、そして素人ゆえの怖いもの知らずの行動力によって、プロのスパイ顔負けの大活躍をするユーモア・スパイ小説である。「わたしは特に勇気があるわけでもないけど、敗北を認めるのだけは厭だわ。今までだって、降参せずに人生を送ってきたわたしですもの。もうひとつ、ここでがんばってみようじゃないの」(柳沢由実子訳)と言う、ポリファックスの困難にぶつかっても諦めない言動に、はじめは、彼女を小馬鹿にしていたプロの男たちも次第に彼女に惹かれ、協力していく。
ポリファックスを主人公にした〈おばちゃまシリーズ〉は、1966年に発表された本作品を皮切りに、2000年の『おばちゃまはシリア・スパイ』まで実に14作も書かれている。これだけシリーズが続いたのは、主人公の前向きな姿勢に多くの読者が、そこに理想のアメリカ人を見ていたからであろう。ドロシー・ギルマンは、良質の作品を多数発表した作家に与えられるアメリカ探偵作家クラブ・巨匠賞を2010年に受賞している。
ところで、おばちゃまの活躍で、もう一人思い浮かぶのが、アガサ・クリスティーのミス・マープル。するどい観察力と深い洞察力で、家にいながら難事件を解決する。ポリファックスが〝行動の人〟なら、ミス・マープルは〝思索の人〟といえよう。アメリカ人とイギリス人の国民性の違いが、こういうところにも表れている。