長年、スウェーデンでスパイ活動を行ってきたグレーイェル・トラッグは上司のランガーに呼ばれて東ベルリンを訪れた。スウェーデンの某電子機器メーカーがアルジェリア政府との取引を望んでいるのを利用して、東ドイツ国家保安省欧課長のケストナーは一儲けするため、トラッグを代理人に仕立てるようにランガーへ命じたというである。
ランガーはケストナーが密かに新たな別の北欧担当の諜報網を作ろうとしていることを知っていた。そうなると、間もなく自分とトラッグの二人は第一線から外される。そこで、ランガーは今回の代理人計画を利用した、ある大博打をトラッグに持ち掛けた。
この大博打を物語の縦軸とするとするならば、横軸は〝アレックス〟と呼ばれる、トラッグしかその正体を知らず、彼だけが接触を許されているスウェーデン政府の要職に就く大物スパイの追跡だ。スウェーデンの公安警察はアレックスを特定するため、密かにトラッグをマークする。
この作品の売りはベテラン・スパイならでは〝用心深さ〟だ。駅で何度も乗り換えるような真似をし、その合間にタクシーを拾ったり、人気の少ない公園をぶらついたりして尾行をチェックすること。見知らぬ部屋へ入る前には必ず非常口の場所を確かめること。どんなに寒い夜であっても、駐車場の雪かきを欠かさず、いつでも車で逃走できるように備えていること等々、敵側からだけでなく、味方組織からも、いつ何時、追われる身となるかもしれない非情なスパイの世界で、トラッグが今日まで生き延びてこられたのは、ひとえに彼の研ぎ澄まされたスパイとしての能力のおかげだ。ベテラン・スパイのそんなリアルな態様が、作品の落ち着いた筆致と相まって、読者にスパイの実像をよく伝えている。
訳者(柳沢重也)「あとがき」によれば、作者K-О・ボーネルマルクは船員見習い、郵便局員、鉄道員、セールスマン、雑誌編集長など様々な職業を経て、1980年に本作品でデビュー。本作品は、その年のスウェーデン推理小説アカデミー賞を受賞している。
作品が発表された当時、スウェーデンは隣国ソビエトからの脅威にさらされながら中立国として存続するため、自力で国防力を高めねばならなかった。それゆえ、東側陣営はスウェーデンの内情を探るためにスパイを暗躍させていた。
スウェーデン人のトラッグがなぜ東側のスパイになったの? それは本作品を読んで確かめてほしいが、共産主義に失望しつつもトラッグは任務に忠実であろうとした。「人は失われたものを心の支えとして生き続けられるように、信じられなくなった主義主張にさえ忠実でいられるものなのだ」という作品中の一文は、自分のアイデンティから抜け出せない中年男性の哀しい性(さが)のようなものを感じさせる。