東欧文学とボヘミアン『秘密諜報員 アルフォンスを捜せ』エゴン・ホストヴスキー著/岡田真吉訳

角川文庫

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 ニューヨークの裏街に住むマリクは、チェコから移民してきた貧乏な精神科医。ある日、彼のもとに心理戦争研究所のハワードと名乗る大佐が訪れる。大佐の依頼は、ソ連内部の諜報網を壊滅させた伝説のスパイ、〝アルフォンス〟の秘密治療だった。マリクは、この奇妙な依頼に興味をそそられ引き受ける。その翌日から、彼の病院には、謎めいた男や女が診察に受けにやって来た。果たして、その中にアルフォンスはいるのだろうか?

 邦題や「事件は逆転また逆転! 恐怖の冷戦を背景として、米ソの諜報機関は、息詰まる国際スパイ戦を展開する!」というカバー袖の紹介文に惹かれて、この本を手に取ったのであれば、おそらく裏切られるだろう。訳者の岡田真吉が「あとがき」で、「スパイを登場人物にするスリラー仕立ての小説となっているが、この小説のねらいは、決しててそんななまやさしいものではない」と説明しているように、本作品は、いわゆるスパイ小説ではない。カフカの『審判』にも通じる、社会情勢や社会通念のメタファーである迷宮の世界で、もがく主人公の不安を描いた小説である。(そういう意味で、原題のMidnight Patience―直訳すれば、『深夜の忍耐』―の方が内容をよく表している)

 迷宮の世界とは、言うまでもなく、作品が発表された冷戦当時(1954年)の熾烈なスパイ戦のことである。それに巻き込まれた主人公の言い知れぬ不安や恐怖を描くことによって、その本質を描こうとした作品である。奇しくも、作者のホストヴスキーもカフカと同様、チェコスロバキア人である。

 21世紀の東欧のSF・ファンタスチカ傑作集である『時間はだれも待ってくれない』(高野史緒編 東京創元社)を朝日新聞の書評欄(2011年10月30日) で紹介していた国文学者の田中貴子は、「そうした歴史の中で育まれた(東欧の)文学は、西欧とは異なる独特の雰囲気をまとっている。(中略)その特徴の一つに、日常生活の中に超越的存在や不条理な出来事が何の前触れもなく立ち現れる、という点がある」と述べている。

 東欧の文学者がそのような不条理な世界を通じて、人々の不安を描き、また、時の為政者を風刺してきたのは、西欧でもロシアでもない地理的な条件、多くの民族が入り混じり、しばしば、その中で紛争を起こしてきた歴史的背景と無縁ではあるまい。

 本作品で登場人物が「いかにも、あらゆる種類の誇大妄想はコミュニズムであれ、ファシズムであれ、あるいはデモクラシーであれ、全て心理学的な基礎をもっているものだと私は思うのです。その誇大妄想が実行に移される時にのみ、政治的な様相をとるのです」(訳者)と語っている。冷戦の真理を見事に突いた指摘だが、それが看破できたのは、作者が文字通り〝ボヘミアン〟だったからかもしれない。