角川文庫
鉄壁のセキュリティーによって守られていたアメリカ国家安全保障局のコンピュータシステム。そのシステムが侵入された。侵入したのは、英国に住む若干18歳のアスペルガー症候群の若者、ルークだった。彼の引き渡しを要求する米国に対して、英国首相の安全保障問題担当顧問、エイドリアン・ウエストンは、この若者の天才的な能力を活かすべく、英米両首脳に〈トロイ作戦〉(敵国のシステムへトロイの木馬のように侵入し、痕跡も残さずにハッキングを行う工作)を提案。ルークに〈フォックス〉というコードネームを与え、ロシアの巡洋艦をハッキングさせた。その後、イランの核兵器施設、北朝鮮の核ミサイル基地などへハッキング工作を仕掛ける。しかし、アメリカ司法省内に潜むロシアのスパイからの情報で、ルークの存在を察知したSVR(ロシア対外情報局)は、彼を抹殺すべく密かに刺客を差し向ける……。
欧米との約束を無視して核開発を続けるイランや北朝鮮の政治的背景、国内事情など、徹底した取材に裏付けされたフォーサイスの小説は、優れたルポルタージュを読んでいるかのようだ。「この小説は現在の世界情勢を知るための教科書だ!」という広告の謳い文句に嘘はない。特にエリツインが後継者として指名した、〝冷たい目をした〟KGB出身のロシアの新しい<頭領>(名指しこそされていないが、プーチンであることは言うまでもない)の人物描写は秀逸。フォーサイスは「彼は共産主義を別の狂信主義と取り替えた」と評しているが、現在(2022年)のロシアによるウクライナ侵攻を見ると、作品が発表された2018年の時点でフォーサイスは、プーチンの中にその危険性を喝破していたのだ。
今日、公共交通機関、インフラ施設、軍事施設などの運用は、コンピュータシステムで制御されている。しかしながら、それがため、遠く離れた場所からでもハッカーから侵入され、制御不能に陥るという、一昔前には考えられもしなかった新たな危険性を孕むようになった。当然ながら、諜報の世界も例外ではない。そうであるからこそ、作品の中で、あるベテランスパイが「現代的なテクノロジーが発達すれば発達するほど必須になるのは古い手法、すなわち直の〝面談〟という皮肉」と感慨深げに語るのだ。
スパイ小説も同様。本作品で取り上げられているのは、21世紀の戦争であるサイバー工作だが、描かれているのは、「冷戦時代に培ったスパイ・マスターとしての豊富な経験を生かした」(訳者あとがき)ウエストンの秘密工作と、それに対抗するSVRとの、「拉致あり狙撃あり、待伏せあり、街角の情報受け渡しあり、昔ながらの知恵比べを繰り広げる、相手の裏をかく」(福田和代の巻末解説より)という、手に汗握る伝統的なスパイ戦である。
82歳で本作品を発表したフレデリック・フォーサイス。その健筆ぶりは一向に衰えていない。