これまでのスパイ小説が描いてこなかった本質的なこと『スパイの誇り』 ギャビン・ライアル著/石田善彦訳

ハヤカワ文庫

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 ギャビン・ライアルの作品は、前期・中期・後期とそれぞれ趣が異なる。60年代に発表された前期の作品は、『もっとも危険なゲーム』や『深夜プラス1』など、アウトローの世界に生きる男たちを描いたもので、我が国でも根強い人気がある。80年代に発表された中期の作品は、陸軍特殊部隊出身の生粋の軍人がホワイトホール(我が国で言えば、霞が関の官庁街)で活躍するマクシム少佐シリーズ。そして後期の90年代の作品が、第一次大戦前の草創期の英国秘密情報部に所属するランクリン大尉を主人公としたシリーズだ。

 大英帝国陸軍将校のランクリンは、身内の負債によって破産したため軍籍を剥奪され、設立間もない秘密情報部へ移される。貴族階級出身の彼にとって、たとえそれが正式な組織の一員であっても、スパイになることは極めて屈辱的なことだった。ランクリンの召喚を伝えに来た近衛少佐が、破産したがゆえにお金に固執するランクリンに対して、「ひょっとしたら新たな任務は(お金のために働く男にお似合いの)情報関係の様な任務かもしれないな」(括弧内は筆者補記)と皮肉を言っているように、スパイは軽蔑され、忌み嫌われる存在だった。

 当時、情報を扱う機関は専ら外務省と陸海軍だったが、列強諸国が虎視眈眈と覇権を狙っていた1910年代、政府は将軍や提督に左右されない専門の諜報機関の設立が必要だと考え、あくまでも情報収集に徹し、決断や実行は政治家に委ねるという取り決めで、しぶしぶ大使や軍人たちに、この新しい機関の存在を認めさせたのである。

 秘密情報部に配属されたランクリンは、アイルランドの反体制活動家だったオギルロイや、男勝りで旧弊にとらわれないアメリカ娘のコリナらとともに、フランス、ドイツ、オーストリア・ハンガリー帝国と舞台を移しながら任務にあたり、それらを通じて、しだいにスパイの仕事の重要性を認識し、そのために尽くすことに誇りを覚えていく。

 ハイライトはブダペストでのバルカン諸国に対する情報活動。ランクリンらは戦争を起こそうとする、ある陰謀が画策されていることに気づいた。スパイのミッションは何かを探ることであって、何かをすることではない。しかし、そうしたランクリンの姿勢に対して、「スパイだからこそ、その陰謀を知り、それを防げることができるかもしれない」とコリナ嬢はランクリンに行動を促す。それは重大な逸脱行為だったが、小説は行動するヒーローを求める。かくして、ランクリンは任務の一線を超えて、陰謀の阻止に動くのだった。

 スパイに対する蔑意、そうした視線の中で危険な任務に臨むスパイたちの矜持、そして彼らの雇い主である諜報機関のあり方という、これまでのスパイ小説が正面切って描くことがなかったスパイ活動の本質的なことを、あらためて考えさせてくれる作品だ。