2024.9.29 スパイは犬を連れて

 毎年、お盆と年末に小学生時代の同級生だった四人で集まって食事会をしている。その中でK君だけ小学校の当時から変わらず五十年以上、今も同じ地元で暮らしている。そのため、「あの店はどうなった?」「あいつは、どうしている?」「俺たちが卒業したY小学校の校舎はあのままか?」等々の質問に答えるK君の話しで場は盛り上がる。

 K君は自分が住んでいる町内だけでなく、小学校の学区範囲内全地域のことまで、実によく知っている。その理由は犬の散歩である。K君によれば、犬も飽きるだろうから、時々、散歩コースを変えて、隣の町内さらにその隣の町内まで犬を連れて歩くそうだ。犬の散歩でなければ、用事もないのに一人でうろうろと隣町まで歩くことはないだろう。また、犬を連れているから、昔、同級生が暮らしていたと思われる家の門柱の表札を確かめても、怪しまれることはない。そればかりか、道端や公園などで犬を連れた他の知らない人と出会っても、犬同士が反応するので、犬を介して自然に相手と会話を交わすことができる。元々人当たりの良いK君であるが、犬を介して、色んな人と話をし、そこからも耳寄りな情報を得ているのだろう。正に犬の散歩は情報探索するうえで、うってつけの方法である。

 実際、スパイの世界においても彼らのスパイ活動をカモフラージュするため、犬を連れている例を見ることができる。

 例えば、『人間の絆』や『月と六ペンス』で知られる文豪サマセット・モームが書いたスパイ小説『アシェンデン』。その中に収められている『裏切り者』という一遍は、妻と愛犬を伴ってスイスのルツェルンに滞在しているイギリス紳士ケイパー(実はドイツへ通じているスパイだった)に主人公のアシェンデンが接触して、イギリスへ寝返らせようとする話しである。ホテルのレストランで見かけぬ人物(アシェンデンのこと)がいるので、用心深いケイパーは相手が何者あるか探りを入れるため、愛犬の紐を解いた。すると愛犬は丸くなって走って来ると、嬉しそうにアシェンデンに飛びついた。「こっちへおいで、フリッツィー」とケイパーは大声で呼びかけてから、アシェンデンに言った。「どうもすみません。とても大人しい犬なんですが」(中島賢二、岡田久雄訳)こうして、スパイのケイパーはアシェンデンと自然に会話を交わすきっかけを作ったのである。

 もう一つ例は、元イスラエル国防軍情報部准将エフタ・ライチャー・アティルが自身の経験を元に描いたスパイ小説『潜入―モサド・エージェント』。その中で、これから敵地に潜入しようとする主人公の女性諜報員レイチェルに対して、上司のエフードは「きみは犬を飼うべきなんだ。犬がいれば、きみは地元に根を下ろしているというイメージが高まるし、立ち入り禁止の地区に入っても、犬を愛するあまり注意書きを見落としてしまったという言い訳ができる」(山中朝晶訳)とアドバイスしている。

 ことほど左様に犬を連れて歩くことはスパイ活動に役立つものだ。さて、今日もK君は犬を連れて地元の町内を歩いていることだろう。今度、会ったら、クラスにいた賢くて可愛いかった、あの女の子がどうなっているか尋ねてみよう。