スパイ小説におけるユーモアとは 『スリーパーにシグナルを送れ』 ロバート・リテル著/北村太郎訳

新潮文庫

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 敵国に潜入し、本国からの合図(シグナル)があるまで一般市民として暮らすスパイを「スリーパー(sleeper)」という。それまではスパイとして眠っており、シグナルをきっかけに、眠りから覚め、指示に従い諜報活動や破壊工作を開始する。

 KGBのスリーパー養成所の教官チューロフは、西側に潜入させていた教え子たちが次々と捕えられたことから、教官としての技量を疑われ、特権を剥奪される。挙げ句の果て、若い妻のために倉庫から口紅をくすねた程度のこと(職業上の役得で、これまでも時々くすねていたが、咎められなかった)で、取ってつけたように告発され、収容所へ送られることになった。このため、チューロフはアメリカへの亡命を決意。CIAは受入条件として、彼の愛弟子であるピョートルの潜伏先と、眠りから目覚めさせるシグナル、即ち行動開始のキーワードの提供を求めた。実は、そこにはCIAの恐ろしい計画が隠されていたのだ。CIAによって眠りから覚まされ、行動を開始したピョートル。一方、CIAの企みに気づいたチューロフはそれを阻止するため、ピョートルの元恋人とともに彼を追う。

 CIAの陰謀を描いたスパイ小説であるが、シリアス感はない。それは軽妙な筆致に加えて、個性的でおかしな登場人物たちの存在に負うところが大きい。いつも派手な蝶ネクタイを結び、目的に向かって無鉄砲なフランシスと、たえず口にキャンディーやチョコを含んでいるのんびり屋のキャロルというCIAの凸凹コンビ〝シスターズ〟。頭と貞操感が少しゆるいチューロフの若妻スヴェトチカ。「Aで始まる難しい単語」を集めているカート。声帯模写が得意な殺し屋など……。

 訳者の北村太郎は解説で「陰惨な話をつづりながら、リテルは持ち前のユーモアを絶やさず、読者の顔に含み笑いをもたらしてやまない」と褒めているが、筆者は、とってつけたような登場人物のキャラクターに共感できない。「Aで始まる難しい単語」が物語の重要なキーワードになる、あるいは声帯模写を使って相手を騙すなど、キャラクターとストーリーに関連があれば納得もできようが、本作品にはそれがない。そのため、却ってあざとく感じられる。ユーモアのあるスパイ小説を否定するつもりはない。中には、グレアム・グリーンの『ハバナの男』のような優れた作品もある。ユーモアというものは、自然に醸し出されるおかしみであり、わざと滑稽なこと言ったり、行ったりするものではない。

 本作品はキューバ危機など、米ソ間が極めて緊張していた1960年代前半のアメリカとソビエトを舞台に、全世界が衝撃を受けたあの暗殺事件を題材にして、スリリングな展開を見せる。特に驚愕の結末は、謎が多い同事件の真相も、さぞや、これに近いものがあったのではと想像してしまう。