綱渡り芸人が意味するもの 『タイトロープ・マン』 デズモンド・バグリィ著/矢野徹訳

早川書房

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 ジャイル・デニスンがある朝、目を覚ますと、そこはイギリスの自宅ではなく、ノルゥエーのホテルの一室だった。バスルームの鏡に映った自分の顔は見たこともない他人の顔。化粧台の札入れに入っていた運転免許にはハロルド・メリックという名前が記されている。彼はメリックなる別人に細工されたのか? その後、何者かによって、観光名所の山頂展望台へ誘い出され命を狙われたが、際どいところでそれをかわす。警察で事情聴取を受けていると、ケアリーとマクレディという二人の英国秘密情報部員が接触してきた。

 ケアリーによると、ハロルド・メリックは電子工学における著名な科学者らしい。また、彼の父親、ハンヌ・メリックもフィンランドの天才的な物理学者だったという。ハンヌは第二次世界大戦の空襲で亡くなる前に、彼が発見したX線の反射方法に関する論文をトランクに詰めて自宅の庭に埋めた。現在(作品は1973に発表)、各国ではX線をレーザーとして使用するため、しのぎを削って研究を行っていたが、課題はX線が物質を透過してしまうこと。それを解決するのがハンヌの論文だった。しかし、彼の自宅があった場所は、戦後、スヴェドゴルススクという地名に変わって、ソビエト領内にある。ソビエトがその論文を見つける前に、何としてでも手に入れなければならい。

 このため、ケアリーと部下の情報部員の二人がスヴェドゴルススクに潜入し、目当てのトランクを回収する間、ソビエトの目を牽制するため、デニスンはハロルド・メリックとして、マクレディ、精神科医、赤毛の年増女、メリックの娘らとともに、囮として、フィンランド北部にあるケヴォ自然公園へ向かった。しかし、ソビエトだけでなく、CIAも彼らを追っていた。こうしてイギリス冒険小説の雄、デズモンド・バグリィならではの、沼地や山岳など、雄大な大自然を舞台とした冒険アクションが展開する。

 タイトルの〝タイトロープ・マン〟とは、イギリスの著名な哲学者バートランド・ラッセルが言った〝綱渡りする男〟という意味。二本のポールの間にピンと張られたロープの上を、長いバランス棒を手にした綱渡り芸人が慎重に歩いている。もし、バランス棒が一方に傾きすぎると彼はロープから落ちてしまう。東西の冷戦構造もそれと同じで、両陣営の軍事力がうまく均衡している時は、それが互いに抑止力となって平和が保たれている。しかし、その均衡が一方に傾くと戦争になる。そのため、時にはアメリカへもソビエトへもお互いが情報を持っていることを知らせ、〝バランス棒の両端に重りを乗せること〟(訳者)が必要だと、作中のイギリス政府高官は述べている。

 考えてみれば、互いの力を知り、均衡状態にあると判断できる拠り所は、スパイがもたらす情報だ。スパイは平和を保つうえでの必要悪なのかもしれない。