人は、なにゆえユダ(裏切り者)になるのか『ヒューマン・ファクター』グレアム・グリーン著/加賀山卓朗訳

ハヤカワ文庫

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 モーリス・カッスルは英国秘密情報部に所属するアフリカ担当の古参部員。最近、彼の担当部門から情報が漏えいしていることが分かり、保安部が内偵を始めた。その結果、若い独身者のディヴィスが、その派手な生活ぶりから犯人だと疑われ、スキャンダルになることを恐れた上層部によって、密かに病死として葬られた。しかし、ディヴィスは無実だった。そのことはカッスルが一番よく知っている。なぜなら彼が犯人だったからである。

 カッスルの妻セイラは、彼が前任地の南アフリカ共和国で助手として雇っていた黒人女性である。二人は恋に陥り、彼女の連れ子であるサムも一緒に三人、イギリスで暮らそうとした。しかし、反アパルトヘイトの活動家でもあったセイラを地元公安当局は逮捕しようとする。それをコミュニストの友人が助けてくれ、彼女とサムを脱出させてくれたのだ。その恩義に報いるため、以来、カッスルは二重スパイとして、密かに東側へ情報を流していた。ディヴィスがいなくなった今、新たな情報漏えいが発覚すれば自分が疑われる。彼はモスクワとの連絡を絶とうとするが、どうしても、ある情報だけは伝える必要があった。しかし、それによって身に危険が迫ったことを察知したカッスルは、モスクワへ亡命するため、緊急用の電話をかける。

 静かだが、張り詰めた緊張感のある作品だ。本作品がキム・フィルビー事件を意識して書かれたことは、よく知られている。一時期、フィルビーと情報部で一緒に仕事をしたことがあり、彼に、いくらか同情的だったグリーンは、フィルビーの自伝My Silent Warの序文の中で、「祖国よりもっと重要なもの、もっと重要な人のために裏切りを犯さない人が、いったい私たちの周囲のどこにいるのだろうか」と書いている。カッスルにとって、祖国よりもっと重要なものは家族だった。だから、セイラもカッスルに言っている。「あなたとわたしとサムの国。あなたはその国は裏切っていないわ」

 人は機械ではない。愛情や友情によって揺り動かされる。それこそ、人を人間たらしめている要因(ヒューマン・ファクター)である。1978年に発表された本作品は、文学性の高い〝ノベル〟と、スリラーやサスペンスを軸とした〝エンターテイメント〟を書き分けてきたグレアム・グリーンが、その到達点として、二つを融合させることに成功した金字塔的な作品と言っても過言ではなかろう。

 藤沢周平は自身の作品や近辺のことを綴った随筆集『小説の周辺』の中で、この作品について次のように語っている。「残念ながら、本書の前には『ジャッカルの日』も影がうすく、『悪魔の選択』は劇画でしかない。グリーンのおかげで、私は無邪気にスパイ小説を読む楽しみをかなり失った気がする」