創元推理文庫
マーラーの楽曲を愛す英国海外情報局員、ハービー・クルーガー。本作品は彼を主人公とするスパイ小説シリーズ(ハービー三部作)の第二弾目である。
ことの発端は、東ベルリン駐在のKGB大尉、ミストチェンコフが西ドイツのイギリス領事館へ亡命してきたことである。ミストチェンコフは、冷戦のさなかハービーの好敵手だったKGB准将待遇大佐ヴァスコフスキーの副官だった男。
ミストチェンコフを尋問したハービーは、ハービーが東ベルリン内に築いた諜報網<テレグラフ・ボーイズ>とそのメンバーの暗号名を、ミストチェンコフが知っていることに驚愕する。<テレグラフ・ボーイズ>の存在はハービーを除けば、局長の他、誰も知らない極秘事項だった。KGBがその存在を知っているということは、これまで同諜報網を通じて西側へ提供されていた情報は、KGBによってつくられた欺瞞情報だった可能性があり、ハービーが築き上げた名声は木っ端みじんに粉砕されてしまう。ジェミニ、ホーラス、ヘキューバ、ネスター、プライアム、エレクトラというギリシャ神話からとった暗号名を持つ6人のスパイたち。この中の誰かが裏切り者なのだ。ハービーは自らの落とし前をつけるため、上司の制止を振り切って、危険が待ち受ける東ベルリンへ潜入した。
作品のハイライトはハービーが裏切り者を突き止めるため、<テレグラフ・ボーイズ>のメンバーを一人ずつ隠れ家に呼び出して面接を行う場面だ。ゴーリキーの戯曲に出てくる、ある台詞の一節が裏切り者を特定するキーワード。ハービーは六人に対して何気なくこの台詞を投げかける。そして、そのなかの一人が反応を示した。しかし、事はそれだけでは終わらなかった。ハービーの想像を超えた、恐るべきKGBの罠がしかけられていたのだ。
生きて再び西側へ戻ることができないかもしれないのに、自らの命を賭して東ベルリンへ潜入したハービー。彼が守ろうとしたのは自分の名誉だけでなく、もっと大事なもの、それは彼が部下に語っている「自分の考えるところに従って決断を下し、自分の書きたいことを書き、それほど大きな恐怖をいだくことなしに言いたいことを言うことができる」(訳者)自由が担保された社会である。それを守るため、「われわれはすすんで消耗品になったのだ」とハービーは情報局の仕事に奉職する理由を述べている。
ジョン・ル・カレは「西欧デモクラシー体制の防御のために、意識的にその主義を放棄した人々の群像を描こうとした」と、『寒い国から帰ってきたスパイ』を執筆した動機について語っている。この伝で言えば、ジョン・ガードナーは〝自由が担保された社会を守るため、自らすすんで消耗品になった人々〟を描くため、本作品を書いたと言えるかもしれない。