ハヤカワ文庫
ヨーロッパ各地でユダヤ人を標的にした爆弾テロが頻発していた。犯人はイスラエルに敵対するパレスチナのテログループだった。首謀者に迫る手がかりを持たないイスラエル情報部は、彼らが爆弾の運び役に若い女を使っていることに着目し、相手組織に女性スパイを潜入させることにした。しかし、そのためには、女性スパイに銀行のガートマンやアメリカ兵など、わざわざ味方の人間を殺させて、彼女が彼ら側の人間であることを証明しなければならない。そうしたことを避けたいイスラエル情報部は、自然な形で彼らの一員になる<特別浸透作戦>を計画した。
そこで白羽の矢が立ったのが、過去に反シオニストの集会にも参加したことがある、売れないイギリス人女優チャーリーだった。イスラエル情報部は、彼らが実際に拉致したアラブ人テロリスト幹部に恋人がいることにして、綿密な物語を組み立て、その物語に則して彼女を徹底的に訓練し、架空の恋人に仕立て上げた。やがて、イスラエル情報部の思惑通り、相手側から接触があり、チャーリーは彼らの一員として受け入れられ、軍事訓練を受けるため、パレスチナ難民キャンプへ連れていかれた。そこで彼女が見たのは、「〝イスラエルの30年は、パレスチナ人を地上のあらたなユダヤ民族にした〟という史上最も残酷なジョーク」(訳者)だった。
もちろん、イスラエル側にも言い分はあるだろう。イスラエルによるパレスチナキャンプへの無差別爆撃によって、子どもや老人たちが犠牲になっていることを非難する新聞に対して、建国以来、常に攻撃にさらされているイスラエルは「何もされなければ、パレスチナ人のひとりも殺しはしない」と反論する。しかし、暴力に対する暴力の報復は、あらたな憎しみと暴力しか生みださない。
ユダヤ人は、中世の頃から、ことあるごとにヨーロッパで激しい迫害(その極めつけはナチスによるホロコーストである)に遭ってきた。その後ろめたさもあってか、ヨーロッパ諸国は面と向かってイスラエルを非難しない。「あなたがた(パレスチナ人)は、ユダヤ人に対するヨーロッパの罪障感がつくりだしたもの…」(括弧内は筆者)という反シオニスト集会で聞かされた言葉や、「おまえたち(イスラエル)が彼ら(パレスチナ)の始末をつけるあいだ、われわれはよそ見していると約束する」(括弧内は筆者)という、かつてイスラエルを委任統治していたイギリスの態度がまさにそれを象徴している。
ジョン・ル・カレは、この作品を通して、それまでヨーロッパ人が見て見ぬふりをしてきたパレスチナ問題に目を向け、その現実を世に問うたのである。
作品が発表(1983年)されてから40年近く経つが、いまだにイスラエルとパレスチナの対立は続いている。