巻き込まれ型スパイ小説の嚆矢 『三十九階段』ジョン・バカン著/小西 宏訳

創元推理文庫

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 アフリカからイギリスへ戻ってきたリチャード・ハネーは、ロンドンでの平凡な生活にうんざりしていた。そんなとき、同じアパートに住むスカッダーという男が彼に助けを求めてきた。あるスパイ団の陰謀を知ったために命を狙われているという。ハネーはこの男を自分の部屋に匿うが、ある日、部屋へ戻ると、胸にナイフを刺されたスカッダーの死体が横たわっていた。このままでは自分が犯人だと疑われる。また、スカッダーと一緒に数日過ごしたことから、スパイ団はハネーも組織の秘密を知ったに違いないと判断し、今度は自分の命を狙うはずだ。ハネーは警察とスパイ団から逃れるため、スコットランドの山岳地へ逃亡した。

 南アフリカで鉱山技師や狩猟をしていた経験から、山岳地はお手の物。途中、牛乳配達人や道路工夫に変装しながら追手をかわし、バーミンガムにある、自分の名付け親の外務次官ウォルター卿の屋敷へ逃げ込んだ。おりしも屋敷では軍の高官たちが会議のために集まっていた。ハネーの話しから、ウォルター卿らは国内に潜伏するドイツのスパイ団が、ある陰謀を計画していることを察知し、国をあげて、それを阻止することになった。手かがりは、スカッダーが最後に遺した「三十九階段」という謎の言葉だった。

 今から100年前に書かれた作品であり、山岳地での追跡劇などは、どこか大時代的で、スパイ小説が冒険小説だった頃の名残を残している。しかしながら、この小説は、それまで広く読まれていたオッペンハイムやル・キューなどによる、〝外套と短剣〟式の現実離れしたスパイ小説ではなく、普通の市井人(と言っても、外務次官を名付け親に持ち、巧みに変装するなど、とても普通の市井人には思えない)が、ふとしたことからスパイ事件に巻き込まれる、〝巻き込まれ型スパイ小説〟の嚆矢として位置付けられている作品である。

 巻き込まれ型スパイ小説がこの時期に誕生したのは、時代と密接に関係する。本作品が発表されたのは、第一次世界大戦最中の1915年。大戦が勃発する数年前からイギリス国内には、至る所にドイツのスパイ―「第五列」と呼ばれるドイツへの内応者―が暗躍していたが、戦時になると、それが一層活発化する。このため、普通の市民が彼らのスパイ活動に巻き込まれる可能性が、これまで以上に増していたのである。

 作者のジョン・バカンは、こうした危機意識から、これまでのスパイ小説にはみられない現実世界の敵を作品で描いたと考えられる。本作品の発表後、外務省と陸軍情報部に招かれ、戦後は政府の情報畑の責任者や下院議員を務め、最終的にカナダ総督にも任命されている。作家としてだけでなく、実業家、軍人、政治家としても手腕を発揮した人だった。

 ちなみに、ヒッチコックの映画、『三十九夜』(1935年)は、この作品を原作にしているが、内容は別物といってもよい。