ハヤカワ文庫
ナチスの再興を秘かに目論む地下組織との戦いを描いた小説といえば、フレデリック・フォーサイスのサスペンス・スリラー『オデッサ・ファイル』が有名だが、それより7年前の1965年に発表された本作品は、グレアム・グリーンやアントニー・バウチャーなど、当時、関係者から絶賛された知る人ぞ知るスパイ小説の名作である。おそらく、フォーサイスもこの作品を読んだに違いない。
ナチス再興を期す秘密組織〝不死鳥(フェニックス)〟。その活動は表からは、ようとして見えないが、政府の要人や警察、軍隊内部にまで組織の細胞が浸食していた。そのため、この組織を探ろうとする者の動きは監視され、阻まれる。不死鳥を内偵していたイギリスの情報部員が殺害されたため、後任として、指令を受けたのがクィラーだった。クィラーには大戦中、強制収容所で残虐非道の限りを尽くした親衛隊大将ツォッセンに対する復讐という個人的な目的もあったので、宿敵を倒すため、故意に敵の罠にはまり、敵の中枢部へ潜り込んだ。
本作品の特色は、ジュリアン・シモンズ(イギリスの推理小説家でミステリ評論家)が「そのあまりにリアリスティックな筆致に、私は思わず肌が粟立つのをおぼえた」と評している現実感にある。ラジオで放送される株式市場の数字を使った暗号通信、換字式暗号(平文を別の文字に置き換えた暗号)と転置式暗号(文字を並べ替えることによって作成された暗号)を組み合わせた暗号文などは、実際のスパイの世界でも用いられている方法だ。本作品が、当時、リアリズム・スパイ小説の嚆矢として世界的に支持されたジョン・ル・カレの『寒い国から帰ってたたスパイ』(1963年)と比肩しうるものとして、評価されたのも首肯できる。
不死鳥のリーダーであるオクトーバーは、強制覚醒剤をクィラーに注射して、クィラーの所属する組織について白状させようとするが失敗する。そこで、今度はクィラーを泳がせ、彼が仲間へ連絡する痕跡を見つけ、そこからクィラーの所属する組織を掴もうとした。その狙いを知るクィラーは、果たして、どうやって本部へ連絡をとるのだろうか? また、クィラーに助けを求める謎めいたドイツ娘のインゲは仲間なのか敵なのか? この作品の見どころは、主人公とオクトーバーとの神経を張り詰めた頭脳戦である。スパイ小説では珍しい一人称形式が、緊迫した神経戦を強いられる主人公の内面を表すのに適している。
1966年にアメリカ探偵作家クラブ賞を受賞した本作品は、同年、『さらばベルリンの灯』というタイトル(邦題)で映画化された。映画は観たことがなくても、ジョン・バリー作曲による哀切を帯びた主題曲の美しいメロディーは、どこかで聴いたという人も多いに違いない。