講談社文庫
ミステリのアンソロジーは数多くあるが、スパイ小説のそれは殆ど見かけない。本書は、その珍しいスパイ小説のアンソロジーである。編者は名うての書評家でありアンソロジストである丸谷才一と常盤新平の両才人であるから、面白くないはずがない。
収められている作品は、イギリスとアメリカの作家を中心に全31編。中にはサマセット・モーム、アンブローズ・ビアス、マーク・トウェイン、パール・バックといった世界的な文豪が書いた知られざる逸品も収められている。
S・モームは、第一次世界大戦時に勤務した英国秘密情報部での経験をもとに『アシェンデン』という、それまでの冒険活劇型スパイ小説とは異なる、リアルなスパイの世界を描いて、スパイ小説史に大きな足跡を残した。その中から『売国奴』という一遍が収められている。妻と愛犬を伴ってスイスのルツェルンのホテルに滞在している愛想のよいイギリス紳士は、ドイツへ通じているスパイだった。彼と接触して、イギリスに寝返らせようとするアシェンデンであるが、彼も知らなかったスパイの世界の非情さを見ることになる。
『トム・ソーヤーの冒険』で知られるマーク・トウェインの『ある奇妙な体験』は、アメリカ南北戦争時代、北軍の駐屯地司令が経験した奇妙な出来事を描いた作品。ある新兵が所持していた手紙から、彼が南軍のスパイであることが判明する。その手紙には、彼の他にも南軍のスパイが潜り込んでおり、彼らが共謀して南軍の大軍を手引きし、駐屯地を襲撃する手筈が記されていた。オチの効いた味わい深い作品である。
パール・バックは、『大地』をはじめ、子供時代を過ごした中国を舞台に、数多くの作品を残している。本アンソロジーに納められている『敵は家のなかに』も、そうした作品の一つ。アメリカ留学から戻った主人公の若者は、まちの名士として尊敬を集めていた厳格な父親が、占領軍(日本軍)の将兵を自宅に招いて媚びへつらっている姿を見て、父親に失望し、家を出て西北の共産軍へ身を投じる。そこで知らされた父親の真実とは……。
これら文豪たちの描いたスパイ以外にも、ローマ帝国軍総司令官の愛人やナポレオンのスパイなど、様々なスパイが登場する。KGBやCIAといったお馴染みのスパイたちに馴れ親しんでいる我々の目には、いずれも新鮮。また、スパイ小説のタイプとして、自陣に潜む敵側スパイを探すものもあれば、自らスパイとなって敵陣に潜入するものもある。
「スパイ小説は問題小説、黒い小説、サスペンスもの、サイエンス・フィクションなどが交叉する地点に位置している」と言ったのはボワロ&ナルスジャック(「スパイ小説論」の『スパイ小説の魅力』参照)だが、本アンソロジーには、その交叉点に位置する、あらゆるタイプの作品が収められている。