スパイ小説と鉄道 『夜の戦いの旅』 ウィストン・グレアム著/大庭忠男訳

ハヤカワ・ポケット・ミステリ

画像をクリックするとAmazonの商品ページへ移ります。

 エセル・リナ・ホワイトの『バルカン超特急 消えた女』(これは、むしろヒッチコックの映画の方が有名)、イアン・フレミングの『007/ロシアから愛をこめて』、ウィリアム・フッドの『裏切られた亡命』など、スパイ小説には鉄道がよく登場する。

 なぜスパイ小説と鉄道は相性がよいのだろうか? 先ず列車が、ある意味、密室だということ。走っている列車から外へ出られないし、外からも入って来ることができない。それでいて、列車が途中の駅で停車すると、乗り降りする乗客で人物の出入りがある。さらに、国境を越えて走る国際列車は、スパイ小説が扱う「敵国への潜入」や「亡命」を象徴する舞台として、うってつけである。そして、何よりも走っている列車の振動が緊張している主人公の心臓の鼓動とシンクロし、スリルやサスペンスを盛り上げる。

 1940年、イタリアとドイツは共同で恐ろしい毒ガスを開発し、それを兵器として使用するための会議が、近くミラノで開催されることになった。その情報を掴んだ英国秘密情報部は、毒ガスに関する専門知識を持ち、イタリア語とドイツ語に堪能なロバート・メンケンを会議に潜らせることにした。しかし、メンケンがミラノに到着したとき、思わぬ事態が発生。イギリス軍の爆撃により、会議を主宰した毒ガスの発明者であるブライダ教授が瀕死の重傷を負ったのだ。運び込まれた病院で息も絶え絶えに、毒ガスに関する秘密をドイツの高名な化学者フォン・リールへ伝えて、こと切れてしまった。もし、フォン・リールがその情報をベルリンへ持ち帰ると、ドイツは毒ガス兵器を完成させることができる。それを阻止するため、英国秘密情報部はメンケンにフォン・リールの暗殺を命じた。

 メンケンはナチスから逃れてロンドンへ亡命して来たオーストリア人化学者だった。彼が秘密情報部に協力したのは、敵性外国人と見られる自分がイギリスへ尽くすことによって、同国へ帰化することを望んだからである。しかし、さすがに暗殺という暴力行為には抵抗を覚えた。だが、現地の諜報員からある事実を告げられると、彼は意を決し、フォン・リールが乗車するドイツ行の国際特急に乗るのだった。亡命者のそうした複雑な立場や心情を描いているところは、アンブラーの『あるスパイの墓碑銘』と共通するものがある。

 作者のウィストン・グレアムは、ヒッチコック映画の『マーニー』の原作者として知られる作家だ。彼が1941年に発表した『夜の戦いの旅』は、66年に再度、新刊として出版されている。戦時中に書かれた作品であるが、その面白さは出版当時から25年たっても、否、80年すぎた今でも変わらない。

 クライマックスの国際列車内でのスリリングな場面は、鉄道を舞台としたスパイ小説ならではの醍醐味を堪能させてくれる。