文春文庫
ヨーロッパ各地でテロを主導するドイツ生まれの伝説的な女テロリスト、ビルギット・ハース。彼女を、もし逮捕すれば、その報復で国内のテロがさらに激化することを憂慮したBND(西ドイツ連邦情報局)は、フランス領内で計画されていたテロ情報と引き換えに、アタナーズが指揮するフランス国土保安局へハースの暗殺を依頼した。同保安局は、この殺害を政治的なものではなく、痴情のもつれによる殺人に見せかけることにした。そのために生贄にされたのが、失業中で妻にも逃げられた中年男、ボーマンである。
物語はアタナーズ、ボーマン、ハースの三人のそれぞれの視点で描かれているが、白眉なのは「準備開始」と題された、ボーマンの視点によるパートである。
旅行会社に勤めていたボーマンは、客の女性と関係を持ったことから解雇されてしまう。ドイツ語が堪能なことくらいしか取り柄がないので、再就職もままならない。おまけに、妻に男ができ、ある日、子どもを連れて家を出て行ってしまった。食欲も気力も失ったボーマンは、しだいに体調を崩し、家に閉じこもりぎみになる。中年男性の読者(筆者もその一人である)ならば、身につまされる思いでページを繰ることだろう。
さて、そんなボーマンに、ある日、彼の特技が活かせる、ドイツで百科辞典のセールスを行う仕事が舞い込んだ。さらに、その話しを持ちかけた男が紹介してくれた医師が処方する薬により、何年かぶりに気力も蘇ってきた……。フランス国土保安局の仕掛けた陰謀が不気味に進行していく様は、あたかも、愛人が謀った罠に陥れられる主人公の恐怖を描いたカトレーヌ・アルレーやボワロ&ナルスジャックのフランスミステリ(心理サスペンス)を読んでいるかのようだ。訳者「あとがき」によれば、作者のギイ・テセールはアルジェリア戦争のとき、秘密情報部の<心理作戦課>で任務していた経歴を持つ人物だという。そうした経歴も、作品に少なからず反映されているのであろう。
今回の陰謀は、アタナーズの部下で野心家のカヴァナが計画したものだった。作戦が終了し、年も押し詰まったある週末、カヴァナは職場仲間を自宅へ招くが、そこで見たあるものに、アタナーズは何か引っかかるものを感じた。そして、その後に驚くべき、どんでん返しが用意されている。しかも、その伏線は物語の最初の方に張られており、読者は優れた推理小説を読んだ時のような、「してやられた」というカタルシスを味わうであろう。
『女テロリストを殺せ』(原題はL’HISTOIRE DE BIRGIT HAS、直訳すれば〝ビルギット・ハースの伝説〟)という、いかにもB級サスペンスのような邦題のために損をしている感があるが、本作品は国家の陰謀に巻き込まれた一人の男の悲哀を描いた、まぎれもない傑作である。