〝ベテランスパイが回想する冷戦時代の秘話〟 『影の巡礼者』 ジョン・ル・カレ著/村上博基訳

ハヤカワ文庫

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 物語はイギリス情報部(サーカス)の新人研修所チーフであるネッドが、かつての上司だった伝説のスパイマスター、ジョージ・スマイリーを卒業記念晩餐会の講師に招く場面から始まる。スマイリーが若者たちに語る話しに触発されてネッドは、自身の長いキャリアで遭遇した11の秘話を回想していく。本作はそれらの秘話で構成されたオムニバス形式の長編小説である。いずれの話しにも爽快なカタルシスはなく、結末には割り切れなさが残るが、それゆえに、影の職業に身を捧げた者たちの孤独や悲哀、倫理の崩壊が深く掘り下げられた一級の人間ドラマになっている。中でも次の三つは出色。

 カンボジアのクメール・ルージュに連れ去られた愛娘を救うため、狂気の戦地をさすらう情報部の協力者ハンセンに関する秘話は、大国のエゴにより、容赦なく切り捨てられる個人の尊厳と、それに抗う親子の愛の執念が描かれた逸品である。

 謹厳実直な退役二等准尉ホーソンに関する秘話では、幼少期から犯罪を繰り返し、刑務所に収監された息子コリンが、父親に「自分はサーカスに協力するための偽装身分で動いている」と語る。息子の言葉を信じたい父親の切なる願いに対して、スマイリーが最後に見せた心遣いが彼の人となりを物語っている。

 ラフマニノフを熱狂的に愛する暗号員フルーイン関する秘話では、国家機密をKGBへ渡した動機が、金銭や政治思想ではなく、「クラシック音楽について熱く語り合える唯一の友人との繋がりを失いたくない」という彼の狂おしいほどの寂しさ、孤独を描いている。

 本作品の発表は1990年。当時、ソビエトは政治・経済・民族問題のすべてが末期的な状況を呈しており、翌年には国家が崩壊した。スマイリーは講演の最後に「諸君に問う。いったいわれわれは〝熊〟を信じていいのか、と。ロシア人と人間同士として話すことができ、多くの分野で彼らと共通の理念を見いだせるということに、みんな意外な思いをしつつも、どこか不安のようでもある。」(村上博基訳)と語っている。残念ながら、その不安は的中し、ウクライナを侵攻するプーチン政権のロシアはかつて熊に戻ってしまった。さらには、世界を混乱に陥れるトランプ大統領のアメリカや、新たな脅威となりつつある習近平率いる中国など、今日、世界はこの三人の独裁者によって平和を脅かされている。

 こうした時代だからこそインテリジェンスはますます重要性を増し、冷戦が終焉してもスパイたちが暗躍する舞台がなくなることはない。「巡礼者」とは、信仰のために個人の幸福や道徳を犠牲にして旅を続ける者をいう。「欺瞞、秘密、裏切り」という影の世界に生き、国家の「大義」のために自らの手を汚し、人間性をすり減らしながら生きるスパイたちも、終わりなき旅を続ける現代の巡礼者といえよう。