文豪クローニンのトリック 『恐怖からの逃走』 A・J・クローニン著/竹内道之助訳

集英社文庫

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 アーチボルド・ジョゼフ・クローニン。今ではあまり読まれなくなったが、『帽子屋の城』、『城砦』、『スペインの庭師』など、多くの人道主義的な作品を書いた、スコットランド出身の世界的な文豪である。そのクローニンが意外にもスパイ小説を書いている。

 1950年の分割統治下にあったオーストリア。アメリカの建築会社ウィーン支社長を務めるブライアント・ハーカーは、商用でソビエト占領地区のグミュントへ行くことになった。前夜、酒場でチェコ出身の知り合いのアルノルドから、グミュントにマドレーヌという彼の許婚がいるので、是非、彼女を探し出して様子を教えて欲しいと頼まれる。ハーカーはグミュントのナイトクラブで歌手をしていたマドレーヌを探し出したが、彼女はあるスパイ活動に関っており、ソビエトの秘密警察が彼女を逮捕しようとしていた。それを知ったハーカーはマドレーヌを救出して、ウィーンへ連れ帰る決意をする。二人の命懸けの脱出行と執拗に追ってくる秘密警察。フィッシュバッハの山越えやマリア像を担いだ聖体行列のお祭り風景などの場面は、もし、映画化されれば、さぞ映えることだろう。

 ジョゼフ・コンラッドの『密偵』(1907年)やサマセット・モームの『アシェンデン』(1928年)など、文豪がスパイ小説を書いた例はある。例どころか、この二つの作品はスパイ小説を語る上で欠くことのできない名作だ。一方、1954年に発表された『恐怖からの逃走』は、訳者(竹内道之助)が巻末で解説しているように、クローニンの作品は全て単行本化されているのに、本作品に限って、どこの国からも出版されず、1957年に三笠書房から出版されたものが唯一の単行本だという。

 『密偵』や『アシェンデン』は、たまたま主人公がアナーキストやスパイだというだけであり、人間の欲望や本性を描いたコンラッドやモームの他の作品と同じ地平に立つ。それに対して、本作品はクローニンの他の作品と共通するものがない。筆者の想像だが、クローニンはオーストリアを旅行していた時に観た、あるお祭り風景に西側地区へ脱出するトリックを思いつき、それを書きたいがため、スパイが脱出する物語を書いたのではないだろうか。奇想天外で秀逸なトリックが見どころの作品であるが、彼のモチーフともいうべき人道主義的な要素はない。継子扱いされているのは、その辺が理由かもしれない。

 脱出行を通じて徐々に募っていくハーカーのマドレーヌに対する想い、しかし、彼女はアルノルドの許婚だ。ハーカーはその事実に葛藤し、彼女との別れ際、わざとそっけない態度をとって自分の心に蓋をする。スパイ小説では、えてして、主人公とヒロインのロマンスはご都合主義的に描かれがちであるが、本作品は主人公のこうした内面描写にリアリティがあり、それがこの作品を有象無象のB級スパイ小説とは一線を画すものにしている。