船上を舞台としたスパイ小説 『恐怖の旅』エリック・アンブラー著/村崎敏郎訳

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 イギリスの兵器会社に勤めるグレイアムは、トルコ海軍の軍艦再装備計画の仕事を終え、いよいよ明日はイスタンブールから汽車でパリへ戻るという日の晩、兵器会社のトルコ代理人らとお酒を飲んで、ホテルの自分の部屋へ戻ったところを何者かにピストルで撃たれた。犯人は、そのまま窓から逃走。軽いケガで助かったグレイアムは、トルコ代理人に電話で事情を話すと、すぐさま代理人は飛んできて、知り合いの秘密警察長官、ハキ大佐のところへグレイアムを連れて行った。ハキ大佐によれば、襲撃したのはドイツのスパイ団に雇われたルーマニア人の殺し屋、ベナートらしい。当時(1940)、トルコとイギリスは同盟関係にあり、トルコ海軍の力が増すと、イギリスと敵対していたドイツにとって不利になる。その為、グレアムを殺害しようとしたというのだ。

 陸路は危険なので、大佐が手配したイタリアの小型貨客船〝セストリ・レヴァント号〟を利用してイスタンブールからイタリアのジェノアまで海路で帰国することになった。船が無事、岸壁を離れると、グレアムは一安心するが、それも束の間、ギリシャに寄港してから新たに乗船してきた男の顔を見て、彼は恐怖に震えた。ベナートが乗船してきたのだ。

 主要な舞台はセストリ・レヴァント号の船内。一緒に乗り合わせているのは、口喧嘩の絶えないフランス人夫婦、物悲しげなイタリア人親子、魅惑的なキャバレーの踊り子とその情夫、哲学論を語るドイツ人考古学者らの面々。何か事情を抱えていそうな国籍の異なる人物たちが、閉ざされた場所に居合わすのは『あるスパイの墓碑銘』(1938年)でもみられる状況設定である。乗客はレストランでのお喋りやトランプ、デッキでの散歩などをして過ごしていたが、ドイツ人というだけで、グレアムを除く誰もが古学者に話しかけようとしないところに、ドイツに対する当時のヨーロッパ人の感情を見ることができる。

 本作品は航海する船上という、逃げることができない舞台で味わう主人公の恐怖を描いたスパイ小説であるが、作品に奥行きを与えているのが、踊り子ジョゼットに対するグレアムの密かな想いだ。彼にはイギリスに美しい妻がいる。しかし、蠱惑的(こわくてき)な女性と一時のアバンチュールを楽しみたいと思うのは、古今東西問わず、既婚男性が等しく抱く潜在的願望。思わせぶりなジョゼットの態度に気をよくするグレイアムだが、所詮、生真面目なインテリ技術者よりも、ヤクザな情夫をもつ海千山千の水商売女の方が、役者が上だった。

 エリック・アンブラーは『あるスパイの墓碑銘』で、市井人である主人公の等身大の内面をリアルに描いて、スパイ小説における新たな境地を拓いたが、本作品においても主人公のそうしたところ(アバンチュールを期すことも含め)に、読者は自分の姿を重ね合わせることができる。80年ほど前(1940年)の作品だが、色褪せていない。