角川文庫
ドイツの敗戦が間近に迫った1945年、親衛隊全国指導者のヒムラーは、戦後の自分の立場を少しでも有利にしようと、ヒトラーに隠れて秘かに連合国側と講和交渉を画策していた。連合国も決して一枚岩ではなく、ドイツが崩壊した後の次の敵はソ連だと考えていた。そんな英米の思惑をうまく利用して、ドイツと西側連合国との戦争を終結させ、ともに手をとってソ連との戦いに備えようというのがヒムラーの提案だった。当然、ソ連にとってそれは由々しきことであり、何としてでも、その交渉を阻止せねばならなかった。
本作品はそうした動きを背景に、ヒムラー、ゲシュタポ長官ミューラー、SD(親衛隊保安本部)政治部長シェーレンベルク、総統官房長ボルマンなど、実在のナチス指導者が登場し、虚々実々の駆け引きを繰りひろげるスパイ小説である。しかも、我が国では異色のソビエトの作家による作品だ。
スティルリッツは、上司であるシェーレンベルクの信任厚いSD連隊指揮官であるが、実はソビエトのモグラだった。彼はモスクワから新たな指令を受ける。―ナチスの指導者の誰かが西側の連合国と接触を図ろうとしている。その真相を突き止めろ。
史実では、ヒムラーが講和交渉を図った相手はスウェーデン赤十字社のベルナドッテ伯爵だが、作品では後のCIA長官アレン・ダレスとスイスで交渉を図る設定になっている。この交渉をヒムラーに勧めたのはシェーレンベルクだが、万が一、これがヒトラーに露見した場合に言い訳できるよう、連合国の仲を裂くための偽りの行動に見せかけることにした。このため、スティルリッツをスイスに派遣し、この交渉を監視させることによって、同交渉が自分達のコントロール下にある作戦であるかのように仕向けたのだ。スティルリッツはこれを利用して交渉内容を、逐次、モスクワへ報告するが、万が一、交渉が失敗してヒムラーが失脚したときの自分の立場を守るため、交渉内容の一部をボルマンへも報告し、彼の保護下にも入ろうとした。うまくいっているかのように見えたスティルリッツの動きであるが、思わぬところに落とし穴が待ち受けていた……。
本作品は、ユリアン・セミョーノフが1973年に発表したスパイ小説である。彼は1963年に『ペトロフカ、38』というモスクワ警察の活躍を描いた警察小説を発表して一躍人気作家となったが、ジャーナリストとしてもソビエトでは著名である。そのせいか、作品には共産主義のプロパガンダ的な色彩はなく、ジャーナリストらしい客観的な視点でナチスの指導者たちの権力争いを描いている。しかし、作風は重厚で、話しも込み入っており、ぼんやり読んでいると、分からなくなってしまう。作者が〝ソビエトのジョン・ル・カレ〟と呼ばれている所以である。