論創社
『歯と爪』や『赤毛の男』などで知られるビル・S・バリンジャー。一見、異なった話しが別々に進行し、最後にそれらが結びついて完結する〝カットバック〟と言われる映画的手法で定評のあった作家である。事実、彼はハリウッドのシナリオライターでもあった。
また、結末の意外性も特色であり、『歯と爪』などは巻末が袋綴じになっていて、封を切らずに出版社へ返本したら代金を払い戻すという セールスプロモーションが話題になった。しかしながら、趣向のトリッキーさもさることながら、北村 薫が『ミステリー十二か月』(中公文庫)の中で『赤毛の男』を取り上げ、「バリンジャーの作品の特徴は意外性にありません。緻密な構成によって『哀しみ』を描いているところにあるのです」と述べているように、彼の作品の魅力は〝哀しみ〟である。新妻を亡くした男の哀しみと絶望感(『歯と爪』)、初恋の女性への淡い想い(『煙で描いた肖像画』)、真面目な警察官がある女性のために身を滅ぼす哀しい愛の物語(『美しき罠』)など、ウイリアム・アイリッシュの作品を彷彿させる、大都会の片隅に咲く男と女の哀しい物語が読者を惹きつける。そんなバリンジャーが、あまり知られていないが、スパイ小説を数冊書いている。その中で、唯一翻訳されたのが、『歪められた男』(1969年)である。
交通事故から目を覚ました主人公が病院のベッドの上で鏡を見ると、そこには歪んだ顔の見知らぬ男が映っていた。ベッドの足もとにはアメリカ空軍少佐であるワイアット・ケイツという別人の名札。ワイアット・ケイツとは何者なのか? 主人公は秘かに病院を抜け出し、ケイツのふりをして事故の真相を探る。ケイツの部下である空軍軍曹、チェコ人の建築業者、ハンガリー人の医師、売春婦、殺し屋など、主人公の前に現れる謎の人物たち。そして次々と襲いかかる危険。そこには、西ベルリンにおけるNATOの緊急用参謀本部建設に絡む陰謀が隠されていた。東側は誘導ミサイルでそれを破壊できるように、建設業者にスパイを潜らせ、誘導信号を敷設しようとしていたのだ。ワイアット・ケイツは、その工事現場の管理者だった。
最終章で、ゲーレン機関(ドイツ国防軍で対ソ諜報戦の責任者だったゲーレンを長とする西ドイツの諜報機関)や、シュタージ(東ドイツの諜報機関)を巻き込んだ恐るべき二重スパイの陰謀が明かにされるが、話しが込み入っていて分かりにくい。また、何もかも最終章に詰め込みすぎである。各章に伏線を散らし、物語全体の流れの中で、それらが収束していく展開であった方が、より多くの読者の共感を得られたであろう。
とはいえ、主人公が唯一、心を許した相手である画家志望の女学生、ヨハナの語るエピローグは、バリンジャーらしい哀しみを帯びたものであり、読後に余韻を残す。