新潮文庫
英国秘密情報部員のチャーリー・マフィンは、いつも、よれよれの服を着た風采の上がらない中年男だが、過去にKGBのヨーロッパ・スパイ網の責任者を逮捕したこともある優秀な〝プロ〟だった。組織内でも評価されていたが、相次ぐ情報部の失策により、首脳部が一新されてから状況が変わってしまった。
新しく部長として乗り込んできたカスバートスン卿は、元陸軍参謀総長という軍人。諜報の仕事に、格式ばった軍隊式の組織運営が導入されたため、個人プレーで、上司にも歯に衣を着せぬことを言うチャーリーは快く思われなかった。それに、彼はグラマースクール(公立学校)出身の叩き上げだ。一方、カスバートスン卿をはじめ、次長やカスバートスン卿が目をかけている若手部員たちは、パブリックスクール出身の上流階級者たちである。階級社会のイギリスにおける身内意識は、我々日本人の想像以上である。チャーリーは、これまで使っていた部屋も経費も取り上げられ、左遷されてしまった。そればかりか、彼らの陰謀により、危うく命まで落としかけるのだ。
そんな折、KGBの超大物であるカレーニン将軍が亡命を望んでいるという情報がもたらされた。チャーリーのプロとしてのカンが何か胡散臭いものを感じ取ったが、情報部は大物スパイの亡命にすっかり色めき立っていた。カレーニンの亡命は、信頼を失墜している秘密情報部にとって名誉を挽回するチャンスであり、カスバートスン卿の名声も絶大なものとなる。参謀本部よろしく、部長室に亡命ルートが描かれたチェコスロバキア国境付近の巨大な地図を貼り付け、陣頭指揮を執るカスバートスン卿の鼻息は荒かった。
本作品はブライアン・フリーマントルが1977年に発表した、チャーリー・マフィン・シリーズの第一弾である。チャーリーが所属する英国秘密情報部はスパイ活動を行う特殊な組織であるが、政府の一機関、即ち役所であることに違いはない。そこには他の役所と同様、上流階級と労働者階級、キャリアとノンキャリア、本社と現場など、相対する二者の間に確執が存在する。また、新しい上司が来て、それまでの仕事のやり方が通じなくなることも、よくあることだ。同じ英国秘密情報部に所属する主人公を描いたスパイ小説であっても、ジョン・ル・カレの作品と異なり、フリーマントルの作品は、いつの時代にも洋の東西を問わず、どのような組織にも内在する、そうした事象に焦点を当てたところに特色がある。それゆえ、読者は本作品を単なるスパイ小説としてだけでなく、自らのサラリーマン人生を重ね合わせた、等身大の人間ドラマとして読むことができるのだ。