ハヤカワ・ポケット・ミステリ
ロンドンの裁縫店に勤めるペネロップ・ライトフェザー嬢は、輝く褐色の髪と緑色の大きな瞳を持った、すこぶるつきの美人。しかし、その外見に反して、性格はあけっぴろげで、何でも信じてしまう、子どもをそのまま大きくしたような女性だった。
そんな彼女の魅力にハリー・コンプトンは惹かれた。実はハリー・コンプトンというのは偽名で、本名をピョートル・セルゲイエビッチ・ミルーキンという、ソビエトのスパイだった。彼は上司のアルメニア人レストラン経営者、バグダッサリアンから、イギリス海軍がソビエトの基地を襲撃する<なだれ>作戦の計画書を手に入れるよう命令を受けていた。その計画書は海軍省の高官、ダンフリー卿の自宅に保管されているという。
スパイは恋愛がご法度であるが、若いハリーはライトフェザー嬢に夢中になり、ほどなく二人は恋に陥る。そしてある日、ハリーはライトフェザー嬢が店のお得意様であるダンフリー夫人の服を仕立てるため、ダンフリー卿の自宅に出入りすることを知る。
本作品はフランスの人気ミステリ作家、シャルル・エクスブライヤが1962年に発表したユーモア・スパイ小説である。同作者による『火の玉イモジェーヌ』(59年)と同様、主人公の勘違いと突拍子もない行動が読者を楽しませてくれるが、特に本作品は主人公に翻弄される相手の困惑した反応が笑いを誘う。いわば、落語的なおかしさだ。ハリーはライトフェザー嬢を騙している罪の意識から、自分の正体を彼女に白状する。本名を名乗ると、「素敵な名前だわ」という感想が返ってくるだけで、彼がロシア人であることの意味について気づかない。業を煮やしたハリーは「ぼくはスパイなんだよ! 分かるかい? スパイなんだ!」と畳み掛けるが、「あたし、スパイって好きよ。映画じゃ、スパイはいつも魅力的な紳士だわ!」と、ハリーにとって信じ難い反応を示す。また、車で死体を運んでいる途中、警察の検問があり、床の上にある大きな包みを問われ、「ソビエトのスパイの死体よ」と真顔で答えて、バグダッサリアンの心臓を凍りつかせる。幸い、警官はライトフェザー嬢がすこし頭の弱い娘だと思って、まともに取り合わなかったので、ことなきを得た。「ひょっとしたら、君は気違いじゃないのか?」とバグダッサリアンが呆れて言うところは、落語の『代書屋』で、代書を頼みに来た要領を得ない客の男に向かって、代書屋がしみじみと「あんた、アホだっしゃろ(「バカでしょ」の大阪弁)と言う場面を彷彿させる。
〝サゲ〟はないが、最後に意外な人物がスパイだったことが明らかになる。それと同時に、読者はライトフェザー嬢の本当の姿を知り、ますます彼女に惹かれることだろう。
本作品は1963年に映画化され、〝フランスのマリリン・モンロー〟といわれたブリジッド・バルドーがライトフェザー嬢を演じていた。まさにはまり役だ。