文春文庫
本作品は各国の情報部員による報告書、本国からの指示書、対象者の監視記録などで構成された極めてユニークな書簡体小説のようなスパイ小説である。それもそのはず、作者のチャールズ・マッキャリーは1958年から約10年間、CIAで勤務し、ヨーロッパやアフリカで秘密工作に従事してきた人物だ。実際に機密の指示書を受け取り、本国へ報告書を送っていたはずで、そういう経験があればこそ、着想し得たスパイ小説であろう。
物語は1959年頃、ジュネーブにある国連のWRO(国際調査機構)の理事長が部下に宛てた「ポーランドからWROに派遣されているタデウシ・ミェルニクの雇用契約を更新しないように、という申し入れが同国大使からあった」という連絡文で始まる。これに対して政策部長は「ミェルニクはWROへの残留を希望している」と理事長へ返信し、イギリスからWROへ派遣されているナイジェルは「ミェルニクはポーランド政府が自分を政治犯として投獄するかもしれないと怯えている」、アメリカから派遣されているクリストファーは「このままだとミェルニクは亡命する可能性あり」と、それぞれ本国へ報告した。
それから一月後、スーダンの皇太子が、国王の特性キャデラックをジュネーブからサハラ砂漠を横断して母国へ運ぶことになった。同乗するのはナイジェルと彼の恋人のイローナ、クリストファー、そして亡命するミェルニクとその妹のゾフィアだ。折しもスーダンでは、王政を倒して共産国家の樹立を目論む聖別解放戦線(ALF)がテロ活動を行っていた。ミェルニクはソビエトのスパイで、ALFを指導するため、亡命を装ってスーダン入りするという情報が本国からクリストファーへ伝えられる。ミェルニクはお人好しで何をするにしても不起用な男。クリストファーはその情報が信じられなかった。しかし、皆が寝静まったある晩、彼はミェルニクがキャデラックの後部座席で本のページをくりながら、普段の彼からは想像もできない手際の良さで、紙に数字を書き込んでいるのを目撃する。
登場人物一人一人に存在感があるうえ、情景描写もよい。特に、ゾフィアの奏でるギターを星空の砂漠で皆が車座になって聴き入るシーンは、まるで映画のワンシーンのようだ。
ミェルニクはソビエトのスパイだったのか?「我々は悪がしこいポーランド人と陰険なロシア人と以前から付き合い、体験を重ねてきた。あの人物は、こういう体験から得られたものでつくりあげた想像の産物だった」(朝河伸英訳)とクリストファーは述懐している。一方、クリストファーの上司は客観的な事実から、ミェルニクはソビエトのスパイだったとみている。しかし、真相は分からず、その判断は読者に委ねられている。
作品の原題はThe Miernik Dossier(「ミェルニク調書」)であるが、タイトルについては、ミェルニクの〝虚像と実像〟に〝砂漠〟をひっかけた邦題の方がよい。