軍人のレゾンデートル(存在理由) 『迷い込んだスパイ』ロバート・リテル著/ 菊池 光訳

ハヤカワ文庫

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 本書はロバート・リテルのデビュー作、『ルウィンターの亡命』(1973年)を反転させたような作品である。『ル』は、アメリカのミサイル科学者、ルウィンターが最新型核兵器に関する極秘情報を持ってソ連へ亡命したことに端を発する物語。ソビエトは彼の持って来た情報の真偽が分からない。一方、その情報が本物であることを確信したアメリカは、ルウィンターを偽装亡命者に仕立て上げ、敵側に渡った情報を偽物だと思わせる作戦に打ってでる。互いに相手の裏をかこうとする、米ソの狡猾な諜報戦を描いたこの作品は、英国推理作家協会賞を受賞している。

 さて、『迷い込んだスパイ』の方は、ソビエトの外交文書伝書係のクラコフがアテネのアメリカ大使館へ亡命してきたことから物語が始まる。CIAの徹底した事情聴取の結果、クラコフの供述に嘘はない。彼が持って来た書類も本物だ。CIAはにわかに色めき立つ。しかし、米軍統合参謀本部直属の秘密機関<特別行動班753―風土研究>のチーフであるストウンは、クラコフの亡命に何か引っかかるものを感じた。そこで、彼は確証を得るべく、単身、ソビエトへ潜入する。

 風変わりな高級娼婦のカトゥーシカ、第二次世界大戦中にスターリンの替え玉を務めたモーニング・スターリン、日によって男になったり女になったりするイリャドールらの個性的な面々の協力を得ながら、ストウン自身はクラコフ亡命の調査を行うKGB将校を装って、モスクワでクラコフの家族や上司と会って、一つずつ事実を探り出していく。やがて分かってきたのは、クラコフは亡命せざるを得ない状況に追い込まれたということだ。

 本作品は1979年に発表されたが、背景となっているのは、73年から79年に亘って米ソの間で行われた第二次戦略兵器制限交渉(SALT・Ⅱ)である。クラコフの亡命は、この交渉が成立しないことを望んだソビエト軍参謀本部情報局長ヴォルコフが仕組んだ陰謀だった。アメリカへ戻ったストウンは、上司である統合参謀本部議長の<提督>へ事のしだいを報告するが、提督はなぜかストウンの意に反して、事を明るみにしなかった。失望したストウンは「もう表裏の見分けがつかなくなった。硬貨の表も裏も同じように見える」と恋人に向かって溜息をつく。表も裏というのは、言うまでもなくアメリカとソビエトのことだ。ヴォルコフはKGBではなく軍に所属し、大戦中にスターリン勲章を授けられた生粋の軍人である。そして、提督もCIAの人間ではなく、統合参謀本部議長を務める軍人だ。軍隊の存在意義は、敵国の脅威に比例する。本書は、軍人の〝レゾンデートル(存在理由)〟が鍵となった作品である。