創元推理文庫
第二次世界大戦の帰趨を決したノルマンディー上陸作戦。その上陸地点を巡る連合軍対ドイツ軍の熾烈な諜報戦は、数多くのスパイ小説で取り上げられてきた。中でも、1978年のアメリカ探偵作家クラブ最優秀長編賞を受賞したケン・フォレットの『針の目』は、ハヤカワ文庫(1983年)、新潮文庫(1996年)、創元推理文庫(2009年)と、三度も異なる出版社から出されるほどの、多くの読者を惹きつけてやまない傑作である。
<針>という暗号名を持つドイツ人スパイ、フェイバーは、パットン将軍の大軍団がフランス北部のカレーへの上陸に備えて、イギリス東南部に集結しているという情報を確かめるため、現地に潜入・偵察したところ、それが途方もないカモフラージュであることを知った。「連合軍の上陸地点はカレーではなくノルマンディーだ!」この事実を一刻も早くベルリンへ伝えるため、フェイバーはスコットランド北部の港町で漁船を盗み、Uボートとの会合地点を目指したが、折からの嵐で船は難破し、北海の孤島に漂着する。しかし、運よく、この島で夫と幼い男の子の三人で暮らすルーシーという女性に助けられた。
ルーシーの夫は元イギリス空軍のパイロットだったが、事故で下半身不随になっていたため、夫婦の間に男女の関係はなくなっていた。そこへ健康で男ぶりのよいフェイバーが闖入し、ルーシーに優しい言葉をかける。必然的に二人の間に男女の関係が生まれる。しかし、すぐにそれに気づいた夫は、フェイバーの不自然な態度から彼の正体を見破り、元軍人として戦いを挑んだが、逆に殺されてしまう。海岸で夫の水死体を発見したルーシーは、フェイバーの嘘に気付き、彼がドイツのスパイであることを悟る。驚愕と恐怖に押し潰されそうになりながらも、彼女はわが子と自分を守るため、フェイバーと対決する。
文芸評論家の北上次郎は「美しく、賢い、戦うヒロイン像の嚆矢」(『冒険小説ベスト100』1997年 本の雑誌社)と本作品を評しているが、この小説の魅力はそれだけではない。
僅かな手かがりから、一歩ずつフェイバーを追い詰めていく英国秘密情報部の捜査は、さながら優れた推理小説か警察小説を読んでいるかのようだ。また、海岸線の防備が急務だというのに、後生大事に機甲部隊を内陸部に温存するドイツ軍の参謀本部に対するロンメルの怒り、たかが一人のスパイ(軍人にとってスパイは、そのような蔑まされた存在だった)をピックアップするため、自分の船と乗組員を危険な目に合わせることに憤慨するUボート艦長など、脇役に至るまで確かな人物造形と存在感があるからこそ、この作品が並みのスパイ小説でおさまっていないのであろう。
題材、状況設定、人物描写、展開など、全てにおいて間然するところがない傑作中の傑作であり、ケン・フォレットの代表作ともいうべき作品である。