イギリスがアメリカ国内で行っていた秘密工作『震えるスパイ』 ウィリアム・ボイド著/菊地よしみ訳

ハヤカワ文庫

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 学位論文を書くためオックスフォード大学に通う傍ら、英語講師をしているルース・ギルマーティン。週末、いつものように五歳になる息子を預けるため、ロンドン郊外の片田舎で暮らす母を訪ねたとき、彼女から手渡された手記を読んで驚愕する。母の本名はサリー・ギルマーティンではなく、エヴァ・デレクトルスカヤといい、第二次世界大戦中、英国秘密情報部のスパイとして、対独工作やアメリカでの情報工作に携わっていたのだ。手記には誰かの裏切りによって殺害されかけ、命からがら逃亡したこと(追手の裏の裏をかいてアメリカからイギリスへ帰り着き、過去の痕跡を消し去ったエヴァの逃亡劇は、本作品の最大の見どころ)が記されていた。その後も現在に至るまで、誰かが自分の命を狙いに来るという恐怖は、一日たりとも母の頭から離れず、心から安心できる日はなかったようだ。(作品の原題は、〝休むことができない〟という意味のRESTLESS) 「いつか誰かがママを殺しにやってきて、おまえ、悲しむことになるのよ」という、ルースが子供の頃、駄々をこねたりする時に見せた母の奇妙な叱り方が、今になって理解できたのである。

 物語は大戦直前から始まるエヴァの数奇な体験と、現在(1976年)のルースの生活が交互に描かれて展開するが、母がルースにあることを頼んだことによって、二つの物語は一つに収束し、やがて、驚くべき真相が明るみになる。

 作者のウィリアム・ボイドは、アフリカ小国へ赴任した若きイギリス人外交官の苦悩を描いた処女作『グッドマン・イン・アフリカ』(1981年)で、ウィットブレッド賞とサマセット・モーム賞を受賞。その後、次々と話題作を発表し、2006年に上梓した本作品によって、コスタ賞最優秀長編賞を受賞した現代イギリスの実力派作家である。エヴァをスカウトした上司のルーカスに対する彼女の愛憎半する想いなど、男性作家の作品とは思えないほど、女性心理が巧みに描かれている。

 作品の背景になっているのは、BSC(英国安全保障調整機構)が1940年にアメリカで行っていたプロパガンダ工作である。ナチス・ドイツの猛攻にさらされていたイギリスは、何としてでもアメリカの参戦を望んでいた。しかし、孤立主義をとっていたアメリカは国民の大半が参戦に反対していたため、BSCはナチスがアメリカ大陸の支配に野望を抱いているかのような情報を捏造して、米国世論を参戦に向けさせる工作を展開していたのだ。エヴァも、こうしたことに携わっていたのだが、皮肉にも、そんな工作とは関係なく、1941年12月の日本軍による真珠湾攻撃によって、アメリカは参戦する。

 イギリスの対独工作を扱ったスパイ小説は数多いが、本作品は、一般に知られていない大戦前のアメリカで行われた、イギリスの秘密工作を描いた異色のスパイ小説である。