西側にも東側にも属さない諜報機関『黒い部屋』 コリン・ウィルソン/中村保男訳

新潮社

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 昼間は大英博物館で執筆、夜は土管の中で野宿生活を送りながら、実存主義の危機とそこからの脱却を論じた『アウトサイダー』(1956年)を発表し、世間を驚嘆させたコリン・ウィルソン。哲学のみならず、オカルト、心理学、文学、文芸評論など幅広い分野に亘って博覧強記の才能を見せた稀有な人物が、極めて異色なスパイ小説を書いた。

 大学で意識と刺激の関係について講義を行っていたバトラーは、英国秘密情報部に乞われてスコットランド山中の湖畔で特別な訓練を受けることになった。目的はCIAやKGBなど各国の諜報機関に関する秘密情報を、敵対する機関へ売りつけている謎のスパイ集団、〝ステーションK〟に潜入するためだ。

 万が一、捕えられ拷問(特に精神的な)を受けるはめになっても、それに耐えられるよう、 <ブラックルーム>と呼ばれる、外界からの刺激が完全にシャットアウトされた部屋の中で、どれだけ意識を正常に保っていられるかを試す訓練が行われた。これに耐えるには、「潜在意識に無理やり働きかけて、潜在意識が飢餓すれすれの賃金の代わりに健康なエネルギーをたっぷり送りよこすように仕向けることである」(中村保男訳)など、ウィルソンの十八番(おはこ)の意識や無意識に関する難解で哲学的な文章が、エンターテイメント的なスパイ小説を期待して、本作品を読もうとしている読者(もし、いたとして)を惑わせるだろう。

 訓練を終えたバトラーはプラハへ赴くが、ステーションKの一味に拉致され、彼らのアジトへ連行される。しかし、尋問や拷問はなく、客人としてもてなしを受ける。

 第二次世界大戦後、水爆が開発され、列強のいずれもが瞬時に相手国を壊滅させる力をもつようになると、「もはや兵器そのものではなく、いつ敵がそれを使う決定を下すかということをひそかに知っていることが肝要」となり、「新しい時代の権力は、なす人にではなく、知る人に依存している」と語るステーションKの首領スタウスマンや、体育と精神修養と規律を重んじる理想郷のような彼らの世界に、いつしかバトラーも惹かれていく。

 本作品が発表されたのは1974年、デタント真っただ中の時期である。ウィルソンは、これからの時代を制するのは、民主主義や共産主義という政治的イデオロギーに立脚する既存の諜報機関ではなく、スタウスマンが語る「知っていること」や「知る人」に価値を置き、それを拠り所とする新しい組織である、というのだ。ただし、よく言われる「情報を制する者が世界を制する」式のありきたりなものではない。作者が描こうとしたのは、自身の出世作『アウトサイダー』で論じた〝社会秩序の内側(この場合、既存の政治的イデオロギーを意味する)〟に留まることを拒絶した人たち、即ち〝アウトサイダー〟によって構成される、西側にも東側にも属さない新たな諜報機関なのである。