過去の名作映画を映画館の大スクリーンで上映する「午前十時の映画祭」。今回は1998年に公開されたスティーヴン・スピルバーグ監督の「プライベート・ライアン」を観た。公開当時、筆者は東京に単身赴任しており、日曜の朝、新宿の映画館でこの作品を観たことを覚えている。
1944年6月、連合軍によるノルマンディー上陸作戦。海岸でドイツ軍の激しい機銃掃射を受け、手足を吹き飛ばされ、炎に包まれる連合軍の兵士たち。血しぶきが飛び散り、海水は血の色に染まる。まるで戦場に放り込まれたような圧倒的な臨場感は、映画館ならではものだ。
何とか上陸に成功したミラー大尉の部隊は、息つく間もなく、前線で行方不明になったライアン二等兵の救出命令を受ける。ライアン家は4人の息子のうち3人が相次いで戦死しており、軍上層部は末っ子のライアンだけでも故郷の母親の元へ帰還させようと考えたのだ。ミラー大尉と彼が選んだ7人の兵士たちは、1人の兵士を救うために、命が危険にさらされるフランス内陸部へと向う……。
途中、何人かが命を落とすが、ついにミラー達は、ある橋の袂でライアンを見つける。しかし、ライアンは仲間を置いて自分一人だけ帰還することを拒んだ。このため、ミラー達はライアンらと共に少ない兵力でドイツ軍の戦車を迎え撃つことにした。しだいに近づいてくる戦車の地響きが映画館の床を震わすかのような迫力である。やはり、この映画は映画館で観るべき作品なのだ。
激しい戦闘により、ミラー大尉は胸に銃弾を受ける。そばにいたライアンに対して、ミラー大尉は息も絶え絶えに「無駄にするな。しっかり生きろ」と言い残して亡くなる。
「無駄にするな」とは、言うまでもなく、ライアンを救出するために命を落とした兵士たちのことである。彼らの命を無駄にしないように、一所懸命に生きろとミラー大尉は言い残したのだ。
震災や飛行機事故などで、多数が亡くなる中、奇跡的に助かる人がいる。生と死は紙一重。正に神様の思し召しとしか言いようがない。おそらく、助かった人たちは、自分の命は「神様に活かされた命」、そして「亡くなった人たちの分も頑張って生きよう」と思うに違いない。
翻って筆者の場合はどうだろうか? 幸いにして、誰かの代わりに自分だけが助かるような非情な経験はないが、それでも今日まで大きな不幸に見舞われることもなくやって来られたのも、神様の思し召しであろう。自分はそれに応えるため、しっかり生きてきただろうか? 映画を観て、あらためて、そんなことを思った。