近代スパイ小説の草分け的作品『あるスパイの墓碑銘』エリック・アンブラー著/北村太郎訳

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 スパイ小説を語るとき、エリック・アンブラーの存在を抜きにして語ることはできない。それまでの荒唐無稽な子供だましのスパイ小説を、大人の鑑賞に堪えうる小説に高めた〝近代スパイ小説の父〟であり、それの記念碑的な作品が『あるスパイの墓碑銘』である。

 フランスで語学教師をしているハンガリー生まれのジョーゼフ・ヴァタシーは、南仏の海辺近くの小さなホテルで休暇を過ごしていた。趣味のカメラで撮った写真の現像を受け取りに行くと、店で待ち構えていた私服警官に逮捕される。現像したフィルムにツーロン軍港が写っていたのだ。スパイ容疑であるが、ヴァタシーには全く身に覚えがなかった。何者かが彼のカメラを使って撮ったのか? ホテルに滞在しているのは、実業家だというフランス人の老人、快活なアメリカ人兄妹、チンピラ風のフランス青年とその愛人、イギリスの退役軍人夫婦、いつもテラスで読書をしているドイツ人男性らの十二人。この中に本物のスパイがいたのだ。

 アンブラーの「あとがき」によれば、これまでのスパイ小説といえば、〝cloak and dagger(マントと短剣)〟を(まと)った主人公が活躍する冒険活劇が主流だった。そうしたタイプのスパイ小説へのアンチテーゼとして、「ささやかながらリアリズムによる試みというつもり」(北村太郎訳)で書かれたのが本作品である。

 ヴァタシーは無国籍者である。「これはそのころ、そんなに珍しい存在ではなかった」とアンブラーが述べているように、作品が発表された第二次世界大戦前夜の1938年は、様々な事情で故国から亡命してきた者が多かった。また、きな臭い時代にはスパイも至る所で暗躍していたはず。そんな中、正規のパスポートを持たない亡命者は、ちょっとしたことでもスパイだと疑われた。ヴァタシーもそうした弱みを突かれ、フランス警察によるスパイ探しに協力することになる。

 浮世離れしたスパイ・ヒーローの活躍ではなく、当時の社会情勢を背景とする、現実的なスパイ事件に巻き込まれた市井人である主人公の姿をリアルに描いたところが、それまでのスパイ小説にはなかった本作品の画期的なところである。そして、それがジョン・ル・カレなどの今日のリアルなスパイ小説へ繋がる近代的なスパイ小説の嚆矢として、高く評価されている理由でもあるのだ。

 海辺の風光明媚な景勝地にある、小さなホテルという閉ざされた空間。そこに滞在する、いわくありげな宿泊客たち。そして、その中にいる真犯人(スパイ)。本作品はスパイ小説であると同時に、アガサ・クリスティーのミステリを読んでいるような、犯人探しの面白さも味わえる。