我を忘れる面白さと、我が事のような面白さ

 小説の面白さは二つに大別される。一つは「我を忘れる面白さ」であり、いま一つは「我が事のような面白さ」である。

 前者は退屈な日常生活を忘れさせてくれるような大冒険、スリル、恐怖、ロマンスなどを描いた小説だ。スパイ小説は勿論のこと、ミステリもこの範疇に入る。新聞やテレビで殺人事件のニュースを見ない日はないが、それでも多くの人にとって、人を殺めることや殺されることは、人生において無縁なことである。殺人は、あくまでも、他所で起こった怖い事件。だから、読者は安全な場に身を置いて、作品の中で描かれている事件の謎解きや犯人捜しを愉しむことができるのだ。殺人が身の回りに溢れている世界(例えば、戦時下の国)では、人はミステリを愉しむような余裕などない。

 一方、後者は〝我が事のような〟、即ち〝身につまされる〟小説である。読者はそこに描かれている主人公の一喜一憂を自分自身に準え、自分のことのよう小説を読む。この範疇の作品は、読者と同じような等身大の人物を主人公に据え、読者と同じような生活環境で暮らし、そこで起こった心をざわつかせること(と言っても、ミステリのような犯罪事件ではない)を描いたものが殆どである。私小説はその典型だし、村上春樹、宮本輝、重松清、林真理子、西加奈子といった、国内人気作家の作品の多くもこの範疇に入る。等身大の主人公が経験する哀しみに読者は涙し、主人公が味わう理不尽に対して同じように憤り、主人公が再生する姿から読者は元気を貰う。それがこの種の小説の魅力であり、多くの読者から支持されている理由であろう。

 しかし、筆者はこの〝等身大の主人公〟というものを素直に受け入れることができない。どうしても自分と比較してしまうのだ。特に主人公がやり手のビジネスマンだったり、女性にモテるといった〝自分にないもの〟を持っている場合は、全く寄り添うことができない。その点、歴史小説や海外ミステリの登場人物は、ハナから時代も舞台も異なるので、いちいち自分と比較することはない。素直に作品の中に没入することができる。

 だから筆者の部屋の本棚には、スパイ小説、海外ミステリ、歴史小説、戦記物などの、〝我を忘れる〟作品ばかりが並んでいる。