書評を読む愉しみ

 スパイ小説の書評を書いていることもあって、書評をよく読む。また、書評を読むことそのこと自体が好きである。ミステリ評論家の各務三郎は『ミステリ散歩』(中公文庫 1985年)の中で、書評を読む愉しさを「まだ読んでいない本の中身を知るほかに、自分の読んだ本をどう評価しているかとのぞきこむのは、隣の座席の人の試験答案を盗み見るようなスリルさえ感じられます」と譬えている。

 そのようなスリルが味わえるかはともかくとして、今回はこれまであまり取り上げられることのなかった<書評を読む愉しみ>について述べたい。

 一つ目の愉しみは、各務三郎が前半で述べている「まだ読んでいない本の中身を知る」というブックガイド、即ちカタログとしての愉しみである。書評には、その作品の梗概や訴求ポイントなどが解説してあるので、わざわざ書店で立ち読みしなくても、本を探すのに便利だ。また、ボリュームも1,000~2,000字と手ごろなので、寝る前に読むのにちょうどよい。枕元のあかりをつけて、ミステリの書評集に目を通し、次に読みたい作品を探すのは筆者にとって至福のひとときである。

 二つ目の愉しみは、各務三郎が後半で述べている「自分の読んだ本をどう評価しているかとのぞきこむ」ことである。自分が読んだ作品について、他の人がどう評価しているのかを知るのは、自分の感性を再確認することになる。自分と同じような評価がされていれば、仲間意識みたいなものを感じるし、違う評価ならば、それはそれで、自分とは異なる視点を知ることできて興味深い。

 これの発展形が三つ目の「書評を読み比べる」愉しさである。クラシック音楽の演奏が、同じ曲目であっても、指揮者によって印象が異なるように、あるいは同じ演目の落語であっても、噺家によって演じ方が異なるように、書評も同じ作品を取り上げていても、評論家によって焦点の当て方が異なる。

 例えば、ケン・フォレットの『針の目』について、作家の丸谷才一は「新しいジョン・カバン」(『快楽としてのミステリー』ちくま文庫 2012年)と評し、文芸評論家の北上次郎は「女性の眼から語らせる<新しい冒険物語>」(『冒険小説ベスト100』本の雑誌社 1994年)と評している。マニアにとっては、そうした違いを読み比べることも、愉しい作業である。

 本ホームページに載せている筆者のスパイ小説書評を読まれた方も、上に述べたような<愉しみ>を感じてくれているだろうか。