高倉健とスパイ

 スパイは相手組織へ潜入するため、偽の身分証やカバーストーリー(架空の経歴)によって別の人物になりきる。そういう意味において、スパイは実世界で演じる究極の役者と言えよう。

 役者といえば、高倉健も〝高倉健〟を演じきった究極の役者である。寡黙、ストイック、不器用でまっすぐな気性……等々というのが〝健さん〟こと高倉健に抱く我々のイメージである。実際の高倉健(というより、本名の小田剛一)は、意外にお喋りで冗談もよく言い、女性にも手が早かったらしい。しかし、彼は自分に対する世間のイメージを崩さないため、たとえば、撮影現場では「他の共演者やスタッフが一生懸命頑張っている時に、自分だけ座っていられない」と言って、休憩用の椅子に腰かけることなく立っていたという。こうしたエピソードは、高倉健が実生活においても、周囲の目があるところでは、意識して高倉健であろうとした証左ではないだろうか。テレビにほとんど出演せず、インタビューも限られたものしか受けないなど、素顔や私生活を厚いベールで包んで、徹底して高倉健を演じきっていたのである。

 ヤクザ、刑事、軍人などの役柄を多く演じてきた高倉健だが、不思議なことにスパイ役は一本たりともない。仮にスパイを演じたとしても、およそ似つかわしくない。スパイ(スパイヒーローではなく、実際のスパイ)は如才なく誰とも親しくなれる性格で、外見も他人にあまり印象を残さない平凡な容姿が適しているとされている。寡黙で孤高を貫いていては、相手から情報を得るのは難しいだろう。また、黙っていても絵になる偉丈夫な二枚目では人目にも付く。

 武骨で意志の強そうな顔と、すっくとした立ち姿―やはり、高倉健は軍人(映画『鉄道員(ぽっぽや)』で演じた健さんは、駅員というより軍人にしか見えない)がよく似合う。