積ん読を愉しむ

 積ん読(つんどく)――買った本を読むことなく、本棚に積んだままにしている状態をいう。

 積ん読は、本好きにとって楽しいことであると同時に悩ましいことでもある。そんな心情を10月29日付の朝日新聞の天声人語で取り上げていた。その中で「書物を買い求めるのは結構なことであろう。ただし、ついでにそれを読む時間も、買い求めることができればである」という哲学者ショーペンハウエルの言葉を引用して、買った本が溜まっていくばかりで、読む時間がないことを嘆いている。全く同感である。

 そうした悩みに加えて、積ん読状態にある本棚を目の前にして、「これらを全部、読まなければ」、「ああ、こんなにも読み残している本がある」というプレッシャーや後ろめたを、本好きの方なら、多少なりとも抱くのではなかろうか。

 毎週、新聞に掲載される新刊の書籍広告や書評欄、あるいは書店の新刊コーナーを見て、あれも読みたい、これも読みたいという〝欲望と戦わなければならない〟。(「天声人語」)

 新刊の場合は、すぐに品切れや絶版になることはないので、「また今度にしよう」と欲望を抑えることができる。しかし、古本の場合はそうはいかない。ブツクオフに置いているような新古書ではなく、古本市で思いがけず見つけた、今ではもう絶対に手に入りそうにない本には「また今度」がない。正に一尾一会の出会い。ゆえに、欲しいと思った古本は絶対にその場で買うことにしている。

 そんな訳で、我が家の本棚には書店のブックカバーが付けられたままの新刊本(筆者は読み終えるとブックカバーを外すことにしている)と、本の天や小口がやや黄ばんだ未読の古書がうず高く積まれている。

 よく、積ん読の本は「退職後の(あるいは老後)の愉しみに残しておく」という人がいる。しかし、歳を取ると、目の機能が衰えるためか、本を読んでいてもすぐに眠くなる。また、登場人物が多い海外の作品では、人物名が、なかなか頭に入りづらくなる。さらに、家にはテレビという読書の妨げになる最大のライバルが存在する。今日ではインターネットやYouTubeという新手のライバルも現れた。このように、老後になったからといって、読書三昧ができるわけではない。

 積ん読は、なにも老後にならなくても愉しむことができる。本棚にある未読本を前にして、今、読んでいる本を読み終えたら、次はどれを読もうかと思案すること自体が楽しいひと時だ。また、書店のカバーが付いた本なら、本を開いてみて「ああ、こん本、買っていたんだ」という、忘れていたがゆえの新たな発見もある。

 積ん読について悩んだり、後ろめたい思いをしたりする必要はない。積ん読そのものを愉しむことを提案したい。