スパイとしても一流だった坂本龍馬

 先日、NHKの「歴史探偵」という番組で坂本龍馬が取り上げられていた。坂本龍馬と言えば、薩長同盟や大政奉還で知られる幕末のヒーロー。しかし番組は、そんな龍馬像とは異なる、意外な彼の姿を紹介していた。

 まずは薩長同盟。定説では犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩を龍馬が仲立ちし、彼の立会いの下、薩長同盟が成立したとされている。しかし、実際は龍馬が京都入りする二日前の慶応2年(1866年)1月18日に京都の薩摩屋敷で、薩摩藩家老の小松帯刀らと長州藩を代表する木戸孝允(桂小五郎)との間で締結されていた。では、龍馬は薩長同盟に係わっていなかったのか? 必ずしもそうではない。寺田屋事変で彼が幕府の捕り方に襲撃されたとき、わざと薩長同盟の密約書を落として、幕府の手に入るように仕向けている。これにより、同盟を交わしたものの、倒幕に逡巡していた薩摩藩に腹を括らせたのだという。

 次は「いろは丸事件」。慶応3(1867)年4月、瀬戸内海の箱ノ岬沖で、海援隊が運航するいろは丸と紀州藩の明光丸が衝突事故を起こした。原因はいろは丸側にあったのだが、龍馬は自分たちのミスを隠して、当時の日本ではあまり知られていなかった「万国公法」(国際ルール)を持ちだして巧みに交渉を進めた。そればかりか、長崎の繁華街で「船を沈めた紀州藩は償いをせよ」という歌まで流行らせて、世論を紀州藩に非があるように仕向け、同藩から巨額の賠償金をせしめている。

 そして、大政奉還。慶応3年(1867年)10月、土佐藩主・山内容堂が「大政奉還」の建白書を幕府に提出した。しかし、自分を藩主にまで押し上げてくれた幕府に恩義を感じていた容堂は、建白書提出に際して、なかなか腰を上げなかった。そこで、龍馬は土佐藩にミニエー銃1,000丁を送り届ける。幕府に無届で大量のライフル銃を所持することは、倒幕の意志ありと幕府から見なされたので、退路を断たれた容堂は、ついに大政奉還の建白を行い、それを受けて幕府は政権を朝廷に返上、二百余年続いた徳川政権は終焉したのである。

 このような龍馬の実像を知ると、我々がイメージする豪放磊落な野生児の龍馬と随分、異なるので戸惑う。坂本龍馬は策士だった。否、策士というより藩の意見を巧みに誘導し、また世論を焚きつけるなど、スパイ組織さながらの謀略工作を行っていたのだ。

 しかし、そうだからと言って、龍馬のイメージが地に落ちたわけではない。番組のエンデインで歴史学者の河合 敦氏が言っていたように、一介の浪人が勝海舟、西郷隆盛、桂小五郎といった蒼々たる人物たちの知古を得て動くことができたというのは、やはり坂本龍馬が傑物だったことに他ならない。龍馬と相対すると、誰もが胸襟を開いて、彼のファンになる。正に人とたらしの坂本龍馬。スパイとしても一流だったといえよう。