『一兵卒の銃殺』と父の想い出

 『蒲団』や『田舎教師』で知られる田山花袋。それらに比べて、あまり知られていないが、彼の作品に『一兵卒の銃殺』という中編小説がある。(よく似たタイトルで『一兵卒』という作品もあるが、これは別物である。)

 『一兵卒の銃殺』は、門限時間までに兵営に帰り損ねた、ある兵士の脱営、放浪,放火,銃殺へと、ずるずる破滅に向かっていく様を描いた作品である。

 実家の父の本棚にあった剥き出しの表紙のあちこちに焦げたようなシミがある、黄ばんで古い文庫本(奥付の発行年月日は、昭和36年12月20日)の同作品を手に留るたびに、今は亡き父のことを想い出す。

 それは今から半世紀以上も前、筆者が小学校四年生か五年生の頃のことだった。学校から帰って、近くの公園で友達と遊んでいたのだが、遊ぶのに夢中になり、すっかり門限の時間が過ぎてしまった。友達は皆、急いで帰ってしまったが、筆者だけ家に帰ることができなかった。父に叱られるのが怖かったからだ。

(どうしよう……)

 悩んでいるくらいなら、すぐに帰って父に謝ればよいのだが、目の前の怖さが先立って、玄関の敷居を跨ぐことができない。その後、とのようにして家に入ったのか記憶が定かでない。覚えているのは「帰るのが遅くなって……お父さんが怒るから……」と母親の横で鼻をすすりながら言い訳をする筆者に、父が気難しい顔をしてタバコをふかしている場面だ。筆者の話しが終わると、やおら父は口を開いた。

 「イチロウみたいにな、帰るのが遅くなって怒られるのが怖いから、そのまま脱走して、最後に銃殺される兵隊の小説があったけど、それと同じやないか。怒られるのが怖いからといって、逃げとったらダメだ」

 あのとき、父が引き合いに出したのが『一兵卒の銃殺』だったのだ。

 人生には嫌なことや逃げ出したいことが、いくらでもある。これまでの筆者の人生においても、そうしたことが度々あった。しかし、不思議とそんなときいつも想い出されたのが、父が気難しい顔をして語ったあの場面である。「怖いからといって、逃げとったらダメだ」は、長じるにつれて、「嫌だからといって、逃げていてはダメだ」と解釈するようなっていた。

 まがりなりにも、筆者が職を転々とすることもなく、家族を持って今日までやってこられたのは、家族を養わなければならないという責任感もさることながら、父が言っていた、この言葉も少なからず影響していると思う。

 父の本棚にあった『一兵卒の銃殺』は、心の杖として、今は筆者の本棚に置かれている。