私が実際に遭遇したロシアのスパイ

 ロシア通商代表部の職員がスパイ活動を目的に日本のハイテク企業の社員へ接触を謀っていることを警視庁公安部が企業側へ通報し、情報漏えいを未然に防いだという新聞記事が載っていた。(2022年7月28日付、産経新聞)

 記事によれば、スパイ活動が疑われる案件を摘発前に企業へ伝えるのはきわめて異例とのこと。背景にあるのは、近年、急増している中国やロシアによる我が国企業へのスパイ活動だ。このため、警視庁は捜査・摘発だけでなく、企業へも積極的に情報提供(相手の手口など)を行って、注意喚起を図るようになったという。

 相手、特にロシア・スパイの接触の手口は〝訓練されたプロによる非常に洗練されたもの〟(同記事)で、例えば、会社の通用門付近で偶然を装って、日本語で道案内を頼み、社員が善意で目的地まで連れて行く間に、社員から連絡先を聞き出して、「今度どこかに飲みに行きませんか」なとど誘い、関係を築こうするのだそうだ。

 そこで思い出されるのが、筆者(私)が四半世紀前に経験したある出来事。筆者は科学技術を振興する団体に勤務しているが、当時、バイオテクノロジーに取り組む関西圏の企業で構成する研究会の事務局を担当していた。仕事の性質上、いろいろな企業や機関の訪問を受けることが多い。その中には各国領事館の商務官という人もいたので、在大阪ロシア領事館の職員が訪ねて来たときも特段、不思議に思わなかった。

 名前はもう忘れてしまったが、同領事館で科学技術の調査を担当しているという、小柄で温厚そうなその人は流暢な日本語で、関西のバイオテクノロジーに取り組む企業や特色などについて質問してきた。上司と一緒に応対し、研究会のパンフレット等に基づいて説明すると、相手も満足したと見え、「今度、是非、食事でもしましょう」と言って帰って行った。

 それから一月ほどして、そのロシア領事館の人から食事の誘いの電話があった。相手が指定した店は、筆者の上司の自宅がある町にあったので、仕事帰りのある日、一緒に食事することにした。

 今回はバイオテクノロジーに関することだけでなく、日本の印象や休日に訪れた観光名所、彼の奥さんが料理をつくるのが好きなことなど、いろいろと話しは及んだ。そして、お開きのとき「今度、我が家で行うパーティーに招待するので、是非、妻の料理を食べてください」と彼は言っていた。店を出た後、お酒でいくぶん顔が赤くなっている上司は「なかなか、いいオッちゃんやないか」と上機嫌だったが、私の中では警戒信号が点滅していた。

 一再ならず会う機会を設け、しかも、まだ二回しか会っていない友人でもない我々をホームパーティーへ招待するなど、どこか普通ではない。他の国の領事館の人たちは、ここまでして、ことさら我々と関係を築こうとはしないのに…。ひょっとしてロシアのスパイでは? 上司にその旨を告げると、「それは、君、スパイ小説の読みすぎやで」と一笑に付された。しかし、今回の新聞記事を見て、やはり、あれは間違いなくロシアのスパイだったと確信した。

 三回目の誘いがあった時、どのようにして断ろうかと思っていたが、その後、不思議なことに相手からの連絡はプツリと途切れてしまった。任期が終わって本国へ帰国したのか、我々からは大した情報が得られないと見定めて接触をやめたのか、真相は分からない。いずれにせよ、あれ以上、深みに入ることがなくてよかったことは確かだ。