スリーパーゆえの哀しみ 『すわって待っていたスパイ』 R.ライト・キャンベル著/北村太郎訳

角川書店

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 第一次世界大戦の終戦間際、ドイツ人スパイ、ウィルヘルム・ウルターは、引き続き任務を維持せよという命令書(それは「ドイツはいつの日か再起するであろう」という文で結ばれていた)を受け取り、スイス人と偽ってスコットランド北部の沖合にあるオークニー諸島へ潜入した。入り江のスカパ・フロー湾は天然の良港だったため、イギリス艦隊の基地があった。この地でウィル(ウィルヘルム)は居酒屋の主人として島民の一人となり、娼婦あがりの薄幸な娘、ジュリーと結婚して家庭を築いた。スリーパーとして、敵国の市民に紛れて、本国からの指示をひたすら待ち続ける日々だったが、ある意味で、幸せな時期でもあった。20年後、再び英独は開戦。ウィルは店に客として来ていた戦艦ロイヤル・オークの乗組員が口を滑らせた、湾の防御網に関する機密をドイツへ打電した。それは、スパイとして大金星であったが、同時にウィルの幸せな日々の終わりでもあった……。

 本作品は、1939年10月14日払暁、スカパ・フロー湾に停泊するイギリス戦艦ロイヤル・オークが、Uボートによって撃沈された史実に材を得たスパイ小説である。スリーパーを描いたスパイ小説はいくつかあるが、この作品はスリーパーゆえの哀しみを描いているところに特色がある。ドイツへ打電した後、ウィルは指定された日にオークニー諸島を離れることになった。いくらスリーパーとはいえ、長年、一緒に暮らしてきた家族や、親しくしてきた島民たちに何も告げず、彼らのもとを去るのは辛いはずだ。揺り椅子に腰をかけ、窓の外の夕やみを見つめていたウィルが、ジュリーに顔を向け「長い、いい夢をみていた」と答える、その言葉に、彼の胸の張り裂けそうな思いを感じとることができる。

 作者のR・ライト・キャンベルは、長年、映画やテレビの脚本家として活躍してきた人だけあって、人物描写や小道具の使い方が巧い。登場人物の一人一人に存在感があるが、とりわけ、飲んだくれで娘のジュリーに暴力をふるって金をせびり、それを注意する義理の息子のウィルに逆恨みして、彼を窮地に陥れようとするボストックの描写は秀逸である。

 また、ドイツ国内でヒトラーが次第に権力を掌握していく状況を、新聞の断片記事で少しずつ、さりげなく伝えているが、それが、やがて来る戦争の足音を感じさせ、不気味だ。

 20年ぶりに故国へ戻ったウィルは、英雄としてヒトラーから鉄十字勲章を授けられるが、その後の人生は必ずしも幸せではなかった。偽りの身であったが、オークニー諸島で暮らした日々が、彼にとって、唯一、本当の自分の人生だったのかもしれない。

 「ある名もなきスパイの一生を描き、単なるスパイ小説の枠をこえて深い感動をよび起こす傑作長編」という本の帯にある惹句に偽りはない。これほどの傑作が無冠で、話題にすら登らなかったのが不思議でならない。隠れた名作とはこのような作品をいうのだろう。