文豪の実体験に基づいたリアルなスパイ小説『アシェンデン』サマセット・モーム著/中島賢二・岡田久雄訳

岩波文庫

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 『人間の絆』や『月と六ペンス』で知られる文豪、サマセット・モームが、第一次世界大戦の初期に勤務した英国秘密情報部での実体験に基づいて執筆したのが本作品である。

 劇作家のアシェンデンは語学が堪能なことから、第一次世界大戦が勃発した時、英国秘密情報部のR大佐にスカウトされて諜報活動に携わることになった。スイス、フランス、イタリア、ロシアなど、きな臭い状況下にあった当時のヨーロッパで行われたアシェンデンの任務が、16話からなる連作短編集として収められている。中でも次の4作は出色。

 『毛なしメキシコ人』は、オスマントルコからイタリアのドイツ大使館へ情報を届ける密命を帯びたギリシャ人スパイの行動を阻止するため、リヨンからナポリまで、英国秘密情報部が雇った殺し屋とアシェンデンが行動を共にする物語。アクが強くて女によくもてるが、時折、見せる所作に殺し屋の不気味さを漂わす毛なしメキシコ人が印象的だ。

 『ジューリア・ラッツァーリ』は、インド独立運動家のチャンドラ・ラールを逮捕するため、愛人の踊り子ジューリアにチャンドラを中立国のスイスから、レマン湖対岸のフランスへ誘い出す手紙を書かせる一遍。ラストの一行に女のしたたかさを見る。

 『裏切り者』(『世界スパイ小説傑作選』では「売国奴」という邦題である)は、妻と愛犬を伴ってスイスのルツェルンに滞在しているイギリス紳士ケイパー氏(実はドイツへ通じているスパイだった)に接触して、イギリスへ寝返らせようとする一遍。アシェンデンをも欺く情報部首脳のやり口に、スパイの世界の非情さが窺える。

 『ハリトン氏の洗濯物』は、革命前後のロシアの様子を描いた一遍。傲慢で純情、自分の考えに固執しすぎて悲劇を招くアメリカ人ビジネスマンのハリトン氏の姿は、当時のイギリス人(モーム)から見たアメリカ人の典型かもしれない。

 16話のいずれも、派手なアクションシーンはなく、「表向きの生活は、市役所の事務員並みに規則正しく単調なものだった」(訳者)と、アシェンデが作品の中で語っているように、ここには作者の経験に基づく、リアルなスパイの世界が描かれている。そのことから、冒険活劇的なスパイ小説に対する最初のアンチテーゼ(エリック・アンブラーの『あるスパイの墓碑銘』が発表されるのは、本作品の発表から十年後の1938年)である〝スパイ小説の古典〟というのが、本書に対する世間の評価である。

 しかし、『アシェンデン』の魅力は、主人公のスパイ活動より、それを通じた登場人物達の人間ドラマである。欲望や裏切りと隣り合わせのスパイの世界では、人間の本性がより一層、顕在化する。人への好奇心が強く、人間観察眼の鋭かったモームが描きたかったのは、むしろ、そちらの方だったのではないだろうか。