スパイ事件に巻き込まれ中年男の再生 『アラベスク』 アレックス・ゴードン著/川口正吉訳

ハヤカワ・ポケット・ミステリ

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 フィリップ・ボーグは、いつも、くたびれた服を着た、うだつのあがらない40歳手前の考古学者。いつ大学から契約を切られるか分からない不安定な身分で薄給。大学の市民講座で古代史を教えて糊口を凌いでいた。そんなある日、彼は中近東某国の留学生、エーヴァ・ベシューラヴィから頼みがあると言われ、伯父のナージュの邸宅へ招かれる。ボーグは、ナージュから象形文字で書かれた、ある暗号を解読してくれたら3千ドルを即金で支払うという驚くべき申し出を受けた。

 折しも、エーヴァの母国の首相がアメリカを訪問中だった。首相は、これまでの前近代的な国家を民主的な国へ変革させようとする意欲ある人物。しかし、それを快く思っていない連中は、彼を排除することを密かに計画していた。その動きを事前に察知した首相は、訪米に先立ち、在米の自国大使館に勤める、ある人物に秘密の外交公電を送った。ところが、その外交公電が何者かによって盗まれる。ナージュがボークに解読を依頼したのは、正にその外交公電だった。かくして、ボーグは一国の運命を左右する陰謀に巻き込まれる。

 本作品の邦題は『アラベスク』だが、原題はThe Cipher(暗号)。文字通り、ボーグは暗号そのものに興味を持つ人物である。考古学は遺跡から発見された物証(象形文字もその一つ)を元に、当時の文明を推定し評価する学問。しかしながら、ボーグは象形文字を解読するだけで、そこに書かれている中味に入っていくことはなかった。そのため、同世代の学者は皆それなりに出世しているのに、彼だけが取り残されてしまった。加えて、ボーグは、かつて、ある発掘現場で落盤事故に遭い、その恐怖がトラウマとなって、それ以降、研究ができなくなってしまった。そればかりか、世間と積極的に関る意欲まで失う。そんな彼に妻のミッジは愛想をつかし、娘を連れて家を出て行ってしまった。

 ナージュから頼まれた暗号の秘密を探るうちに、ボーグはニューヨークに滞在中の首相を狙った暗殺計画に気づく。これまでの彼は表面をなぞるだけで、中に踏み入ることのない〝観察者〟だった。しかし、それでよいか?「もしかすると、いまのおれに何かできるのではないかしら?」(訳者)と自問自答した彼は、暗殺を阻止するため、行動を起こした。

 本作品は、某国首相を狙った暗殺計画の暗号をめぐるスパイ小説であるが、同時に仕事や人生に対する意欲を失った一人の中年男が、スパイ事件に巻き込まれ、行動を起こすことによって、自信と家庭を取り戻す、〝再生〟の物語としても読むことができる。 作品の発表は1961年。66年には映画化されている。こちらの方は、うだつが上がらない男とは程遠い美男子のグレゴリー・ペックが、相手役のソフィア・ローレンと繰り広げるお洒落なサスペンス映画であり、同じタイトルながら、原作とは随分、趣が異なる。