年上のドイツ女性に恋した無垢なイギリス人青年『イノセント』 イアン・マキューアン著/宮脇孝雄訳

ハヤカワ文庫

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 冷戦時代、ベルリンのアメリカ占領地区からソビエト占領地区まで地下トンネルを掘って、ソビエト軍基地の通信を傍受する米英の共同作戦(一般に「黄金作戦」と呼ばれている)が行われていた。本作品は、この作戦を背景としたイギリス人青年と年上のドイツ人女性との恋愛を軸とするスパイ小説である。

 イギリス逓信省の技師レナードは、ベルリンへ派遣され、ボブ・クラスというアメリカ人の上司のもと、〝黄金作戦〟の準備作業を行っていた。厚かましくて、せっかちなボブとナイーブなレナードとの対比は、そのままアメリカ人とイギリス人の国民性の違いを表しているかのようだ。

 仕事が終わったある晩、レナードはボブに誘われてナイトクラブへ行き、マリアというドイツ人女性と知り合う。レナードは、まだ恋も知らせない26歳のイノセントな(初心な)青年。一方、マリアは30歳だったが、二人はたちまち恋に陥る。しかし、マリアには飲んだくれで暴力をふる別居中に夫、オットーがいた。ある晩、レナードはオットーの暴力からマリアを守ろうとして、おもわずオットーを殺めてしまう。

『ベッドの中で』(1978年)、『セメント・ガーデン』(79)、『異邦人たちの慰め』(81)など、イアン・マキューアンの作品には近親相姦、性的倒錯、死体遺棄といった気味の悪さがみられるが、本作品にも、窮した二人がオットーの死体を処分するため、死体を切り刻んでトランクに詰める場面があり、いかにも、彼の作品らしい。

「黄金作戦」はソビエトのスパイ(作品にも、この実在スパイが登場する)によって、最初からソビエトに筒抜けだった。ソビエトはこのスパイを守るため静観していたのだが、1956421日、突如、トンネル東端から兵士を突入させた。なぜこの日なのか? 史実は別として、作品ではレナードのある行為を、その疑問に答える形で描いている。

 作品に奥行きを与えているのが、30年後、初老になったレナードがベルリンへの出張がてら、かつてマリアと過ごしたアパートや、「黄金作戦」の舞台となった西側基地跡に立ち寄るシーン。爆撃で破壊されたままの建物が残り、至る所で復興の槌音が聞こえた1950年代のベルリンの面影は既になく、皮ジャンにモヒカン刈りの若者やトルコ語の看板などが目立つ現代のドイツの風景が、隔世の感を醸し出している。

 レナードはトンネルの廃墟で、マリアから届いた手紙を読む。ナイーブでプライドが高かったため、マリアとの恋愛を成就させることができなかった後悔と、その後に抱くマリアとの再会の期すレナードの強い思いに、読者は胸を熱くすることだろう。

 1990年に発表された本作品は、93年に作者自らのシナリオによって映画化され、翌年、『愛の果てに』という邦題で我が国でも公開された。