『針の目』のようにならなかった理由 『エメラルド、深く潜入せよ』 ロナルド・バース著/鷺村達也訳

早川書房

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 第二次世界大戦の帰趨を決した連合軍の大陸侵攻作戦。その時期と上陸地点を巡る連合軍対ドイツ軍による諜報戦を描いたスパイ小説として、ケン・フォレットの『針の目』(1978年)が有名だが、ロナルド・バースの『エメラルド、深く潜入せよ』(1984年)も、それに比肩するものとして、アメリカでは高い評価を得ている。

 来るべき大陸侵攻戦に備えて、連合軍はイギリス南部のスラプトン・サンズ海岸沖合でLST(揚陸艦)による上陸演習を行っていたが、ドイツ軍のEボート(魚雷艇)の攻撃を受け、アンディー・ウィーラーという米軍少佐が捕虜になった。アンディーは大陸侵攻作戦の詳細を知る特別な将校だった。ナチス・ドイツのSD(親衛隊保安部)はアンディーからその作戦計画を聞き出すため、<エメラルド>という暗号名を持つドイツ側の二重スパイ、ガス・ラング米軍大尉を訊問に当たらせることにした。実はガスは連合軍の三重スパイであり、アンディーを救出する(無理な場合は、アンディーの口を封じる)使命を連合軍最高司令部から受けていた。訊問を行うため、パリ・バンセンヌ刑務所へ赴いたガス。果たして、彼はSS准将のホフマン率いるナチスの訊問チームを、どこまで騙しとおすことができるのだろうか。

 作品の見どころは、ガスとホフマンによる息詰まるような心理戦である。「変幻きわまりない眼の表情とさまざまな微笑の種々相による心理的な動き」(訳者あとがき)によって、互いに相手の心の内を読み取る二人。確かに諜報の世界で生きる人間は、人の心理を見抜くことにかけて、一般人よりも長けているだろう。しかし、作品に描かれているような〝読心術、ここに極まれり〟といった二人のやりとりを見ると、本当にそんなことが可能なのかと首を傾げたくなる。

 また、ガスと恋人のフランス人女性、クレールとの会話や二人の心の動き―例えば、初めてイブニング・ドレスを着たクレールに対するガスの「彼女の美は想像を絶し完璧さを超えたものだ」(訳者)という表現一つとってみても、説明的でいただけない。

 大陸侵攻作戦の秘密を知る人物がドイツ軍に捕らわれ、それを救出するため、主人公が敵側訊問チームに紛れ込むという斬新なアイデア。切れ者のホフマン、狂信的なナチス信奉者のリッテルSS大佐、練達の国防軍情報将校であるブラウシュ大佐という、役者が揃ったドイツ側の訊問チーム。それだけに、人物描写にリアリティがないのが惜しまれる。

 「小説は全体が虚構であっても、細部は真実でなければならない」と言ったのは文豪、バルザック。本作品が『針の目』のような傑作にならなかったのは、その辺に理由があるのかもしれない。