新潮文庫
本作品は、ソビエトが崩壊することなど、誰もが想像だにしなかった1979年(この年、ソビエトはアフガニスタンへ軍事介入している)発表の、イギリスがソビエトに占領されている近未来のディストピア社会を描いたスパイ小説である。
199X年、チトー大統領の死後、ユーゴスラビアに攻め込んだソビエト軍は、その勢いに乗じて、またたくまにヨーロッパ全土を制圧。イギリスはソビエトに占領され、孤立主義をとっていたアメリカは、欧州での兵力を失う。失地回復を図るアメリカは〝ゴルゴタ〟という、キリストの復活地の名前が冠された極秘作戦を実行するため、渡米中だった英国秘密情報部員のポール・ファンデンをイギリスへ送り込んだ。
作品の見どころは、占領下のロンドンの風景。店頭の食料品は常に不足し、日によって電気の来る時間が定められている。夜間になると、広告のネオンやショーウィンドーのあかりが消され、外を歩いているのはソ連兵だけ。以前は人波を縫って進まなければならなかったピカデリー駅へ通じる地下道のコンコースも、今はパトロールする警官に監視され、人々は整然と歩いていた。どの警官もソ連の憲兵とコンビを組んでいたが、「情報部員としての良心が、何度か、自分のとった行動にいささかの疑問をもたせたこともあったが、いろいろな現実を目にすることで、その疑問も薄らいでいった」(訳者)という彼らの内面に、新しい主人に仕える被占領国の警官や情報部員の屈折した心情を窺い知ることができる。
〝ゴルゴタ〟とは、アメリカが密かにイギリス国内に設置していた大陸間弾道ミサイルのことである。ファンデンは残置スパイたちの潜在意識に埋め込まれていた情報をもとに、ミサイル・サイロが隠されている場所を目指すが、ソビエトのKGBも、それに気づく…。
作者のジョン・ガードナーは、英国海外情報局員ハービー・クルーガー・シリーズの書き手としても知られるが、このシリーズの『ベルリン 二つの貌』(1980年)で、「自分の考えるところに従って決断を下し、自分の書きたいことを書き、それほど大きな恐怖をいだくことなしに言いたいことを言うことができる」(後藤安彦訳)社会を守るために東側と戦う男を描いている。『ゴルゴタの迷路』においても、ファンデンは「各個人が政治上の上で失敗するか成功するかを自由に選べる権利を取り戻すために」(水上峰雄訳)戦っている。この作者にとって、「自由」」こそが、何にもまして尊重されることなのであろう。
21世紀にこの物語を読む我々は、作品にあるような事態が起こらなかったことを知っている。しかし、1980年代後半のソビエトにミハイル・ゴルバチョフという指導者が現れなかったら、冷戦はまだ続いていたかもしれない。もし、そうだとしたら、ヨーロッパの東側半分は、今もなおソビエトに隷属し、自由が厳しく制約されていることだろう。