ハヤカワ文庫
ロンドンの金融街で辣腕のトレーダーだったジュリアンは、静かで穏やかな暮らしを求めて、ひなびた海辺の町で書店主となった。ある日、冴えない身なりの白髪の男性客が店を訪れた。彼はエドワンと名乗り、ジュリアンの亡父の友人だったという。そして店の地下室に強い興味を示し、ここにすぐれた古書を集めたコーナー〝文学の森〟を設けることを提案。ジュリアンはそのアイデアが気に入り、彼にアドバイスを求め、以来、エドワードはそれに応えるため、しばしば書店を訪ねるようになった。
一方その頃、イギリス情報部の国内保安責任者であるプロクターは、子連れの若い女性から渡された手紙から、国内の重要な情報漏えい事件を知り、密かに調査を開始する。
タイトルのシルバービュー荘とは、この町の海辺に建つ古い大邸宅の名前。館の主人はエドワードの妻であるデボラ。かつてイギリス情報部で〝ヨーロッパの女王〟と呼ばれた伝説的なスパイマスター(管理官)だったが、今は病に侵され死期が迫っている。最近になって、なぜかデボラはエドワードをシルバービュー荘から追い出そうとしていた。
エドワードとは何者なのか? プロクターの調査によって、かつてボスニア紛争の時にイギリス情報部が現地に送り込んだ一人のポーランド人スパイのことが浮かび上がってきた。
本作品は2020年12月に亡くなったジョン・ル・カレの遺作である。物語は「あたしがこれからもあなたに話さない最後の秘密はこれ」とエドワードの娘であるリリーがジュリアンに不気味な笑みを浮かべて語るところで、唐突に幕切れとなる。
ジョン・ル・カレの末息子であるニック・コーンウェルによる「あとがき」によれば、もし父が未完の原稿を残して亡くなった場合、ニックがそれを完成させることを父と約束していた。しかし、ニックは残された原稿の完成度の高さに畏怖すら覚え、手を加えなかった。結果として本作品は未完のままであるが、未完であるがゆえに読者はリリーが言った最後の秘密が何であるか、色々と自分なりに想像することができる。
この作品で作者は、ボスニア紛争時にキリスト教国であるセルビアがイスムラ人に対して行った残虐非道な犯罪行為、アメリカが中東で始めた戦争の後始末をするたびに、次の戦争を始めること、そして、その後ろからついていくだけのイギリスは、いまだにかつての偉大さを夢見ていていること等々を情報漏えいの背景として登場人物に語らせている。
ジョン・ル・カレがスパイ小説の巨匠と言われた所以は、現実のシリアスな諜報の世界をスパイ小説で描いた先駆者というだけでなく、作品を通して複雑な利害で絡みあったその時代の国際情勢を冷徹な目で見続けてきたからだろう。