無邪気なスパイごっこが招いた悲劇 『スパイたちの夏』 マイケル・フレイン著/高儀 進訳

白水社

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 子どもはスパイごっこが好きである。誰かの秘密を探ることはスリルがあって、また、ちょっとしたヒーローのような気分にさせてくれる。しかし、無邪気なスパイごっこが、時として、遊びでは済まされない悲劇を招くこともあるのだ。

 スティーブン・ウィートリーは少年時代を過ごしたロンドン郊外にあるクロース(袋小路)と呼ばれる場所を訪れ、第二次大戦中だった60年前の夏のある出来ごとを回想する。

 スティーブンとキース・ヘイワードの二人は、色んな遊びを編み出して楽しんでいた。しかし、遊びの主導権はいつもキースが握っており、スティーブンはそれに従うだけ。彼らだけの軍隊ではキースが将校であり、スティーブンは兵卒だった。それは実際、両家の家の格においても当てはまっていた。キースの家は、彼の父が第一次世界大戦中、陸軍将校だったという、躾や規律に厳しい中流階級の家庭だった。対するスティーブンの家は、いつも新聞ばかり読んでいる事務員の父を持つ労働者階級。スティーブンがキースの家に遊びに行っても、キースの父は決してスティーブンに直接、話しかけてくることはなかった。そういうところにも、厳然たる階級社会であるイギリスの一端を見ることができる。

 ある日、キースが「ぼくの母はドイツのスパイだ」と口にしたことから、二人のスパイごっこが始まった。二人は夏に甘ったるい下品な香りを放つイボタノキの灌木の陰に隠れて、キースの母を監視。そして、食料品が入った買い物かごをさげた彼女を尾行した。やがて、土手道をくぐったトンネルの向こう側の荒れ果てた地区外れにある、爆撃で崩れた建物の地下室に身を隠している男のところへ、キースの母が定期的に訪れていることを知る。大人なら彼女が何をしているのか察しもつくだろうが、まだ10歳にもならない少年にとって、その男はドイツのスパイであり、キースの母がそいつに機密情報を渡していると思い込むのだ。その思い込みが、やがて、大人たちを巻き込み、悲劇をもたらす。

 60歳を越した現在のスティーブンは、あの時の大人たちの行動の裏に隠されていた真実を理解している。それは戦争がもたらした残酷な事実だった。本作品は少年時代のスパイごっこにまつわる苦い思い出と、美しくて上品なキースの母に対する少年の淡い想いを描いた文芸作品である。小説家、劇作家、翻訳家として活躍するマイケル・フレインは、本作品によって、イギリスの権威ある文学賞、ウィットブレット賞を2002年に受賞した。

 物語の終盤に、スティーブンは自分の家族の秘められた出自を語り、「あの年の夏、クロースにはスパイが二人いたのだ」と、自分の他に、もう一人、本物のプロのスパイがいたという驚くべき事実を告白している。本作品は文芸作品であると同時に、紛れもない一級のスパイ小説でもある。