ソビエト社会主義体制を風刺した傑作 『スパイになりたかったスパイ』 ジョージ・ミケシュ著/倉谷直臣訳

講談社文庫

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 ソビエトでは発禁本である007を秘かに愛読し、ブロンド美女を傍らに、世界をまたにかけて活躍するスパイに憧れていた学生のアルカージィは、語学が達者で女の子にもてたことから、KGBにスカウトされ、ロンドンへ派遣される。しかし、与えられた任務は経理の仕事。およそジェームズ・ボンドとは程遠い退屈な毎日だった。

 本作品は、『ガイジンになる方法』(1946年)というシニカルでブラックユーモアの効いた欧米文化論を著したハンガリー出身のイギリス人ジャーナリスト、ジョージ・ミケシュが1973年に発表した、当時のブレジネフ政権下のソビエト社会主義体制を風刺したスパイ小説である。

 事の発端は、ライバルのGRU(軍情報部)に対抗して、己が組織の勢力拡大を図るため、大量のスパイを新たにロンドンへ送り込むというKGBトップの馬鹿げた思いつきだった。官僚は勢力の維持拡大に心血を注ぎ、「実際の仕事量に関係なく、官僚の数は増え続けていく」という『パーキンソンの法則』と呼ばれる現象があるが、まさにその典型であろう。

 また、一つの国に似たような組織が複数ある場合、互いに激しい対抗意識を燃やすものだが、ソビエトの場合、それが極端である。もし、ある作戦でKGBが失敗してGRUが成功した場合、KGBの担当責任者は間違いなく粛清される。「ロシアの高官の日常というのは、いわゆる平常時にあってさえ、プロのクマ狩りやライオン調教師の生活より、危険がいっぱいなのである」(倉谷直臣訳)という作中の一文は、見事なブラックユーモアだ。

 ロンドンの空港に到着したアルカージィは、何ら疑われることなく税関をパスしたとき、これとほどまでに人が信頼されていることに感動する。ソビエトだと厳めしい顔つきの官憲に、まるで犯罪者のように扱われるからだ。しかし、はじめこそイギリス人の紳士的な態度に感動していたが、しだいに彼らのよそよそしさよりも、喜怒哀楽がすぐに表に出るスラブ的な粗野を好ましく思うようになり、あらためて自分がロシア人であることを意識する。そして、母なるロシアの危機―南部ロシアを襲った飢饉により、ウクライナで大量の餓死者が出ている状況(計画経済にもかかわらず、社会主義国で飢饉が頻発するのも皮肉だ)―を救うため、ロンドンのある会社が発明した画期的な栄養剤を盗みだすのだ。

 『スパイになりたかったスパイ』(原題はThe Spy Who Died of Boredom 直訳すれば〝退屈で死んだスパイ〟)という邦題だけを見ると、一見、B級のユーモア・スパイ小説かパロディーものといったイメージを抱くかもしれない。しかし、内容は巻末の解説で開高 健が「スウィフトやゴーゴリーの正摘の末裔と呼びたくなる」と絶賛した風刺小説の傑作であると同時に、官僚制やロシア人を知るうえでの、格好のテキストでもある。