残された家族の視点『スパイの妻』 レジナルド・ヒル著/山本俊子訳

ハヤカワ・ポケット・ミステリ

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 もし、あなたの夫又は妻がスパイだったら―そんな馬鹿なと、一笑にふすなかれ。果たして、あなたは伴侶のことをどれくらい知っているのだろうか? 彼(彼女)が一日どこで何をしているのか、誰と会っているのか全て把握しているだろうか? そう考えると、案外、知っていないことに気づく。

 本作品は夫がスパイであることを知らされた、ある主婦の物語である。話しはモーリーが朝食の皿を洗っているところから始まる。出勤したはずの夫のサムが慌てた様子で戻ってきて、2階からスーツケースを抱えて降りてきて再び出て行こうとする。モーリーの質問にも、気もそぞろに、「すまん」という言葉を繰り返し、最後には「連絡する」、「愛しているよ」と言って、車のドアを勢いよく閉め、庭の植え込みを引き倒しながら、猛スピードで去って行った。30分後、二人の見知らぬ男がモーリーを訪ねてきた。その日のサムの行動やサムの行方を知らないかと執拗に尋ねる。二人は英国秘密情報部の者だった。そして、彼らはサムが東側のスパイだったという驚くべき事実を告げたのだ。

 サムは地味だが落ち着いた理想的な夫だったので、スパイだったなんて俄かに信じがたい。驚愕とショック。昨日までの平穏な幸せが、いきなり断ち切られた喪失感と悲しみ。これまでの結婚生活、否、自分への愛も全て偽りだったのかという裏切りに対する怒りなど、残された妻の揺れ動く心情がひしひしと伝わってくる。

 また、彼女の周囲の登場人物―別の女性と結婚しながらも、モーリーへ未練を残している元フィアンセ、しっかり者で頑固、何でも自分で仕切ろうとするモーリーの母親、仕事から帰ると、愛犬(ラブラドールの雑種犬であるダニーの、大きな幼児といった、いかにも犬らしい様子が微笑ましい)を散歩させ、その後、クラブで一杯飲むことだけを楽しみにしているモーリーの父親、いつもヨレヨレの上着を着て見栄えはパッとしないが、頭の切れる中年男の情報部員モンクなど、一人一人に存在感があり、作品に厚みを与えている。

 作者のレジナルド・ヒルは、『殺人のすすめ』や『社交好きの女』などのミステリの他、いくつかのペンネームで、サスペンス、冒険小説、一般小説なども書いている。1980年発表の本作品はスパイ小説であるが、多才な作家なればこそ、スパイ本人ではなく、残された妻の視点から見た、このような異色な作品を書き得たのであろう。

 居間でスナック菓子を食べながら、のんきそうにテレビを見ている夫(妻)。とてもスパイには見えない。しかし、サムがそうだったように、スパイはそれらしく見えないものだ。ひょっとしたら、夫(妻)は某国のスパイかも?……そんなことを想像するのも楽しい。