早川書房
本作品はジョン・ル・カレが亡くなる一年前(2019年)に発表した、ブレクジット(イギリスの欧州離脱)で揺れ動く、当時のイギリス社会を背景に描いたスパイ小説である。
長年、海外で対ロシア関連の諜報活動に従事し、成果をあげてきた英国秘密情報部(SIS)のベテラン部員ナットは、引退を前にイギリスに帰国する。新たに与えられた任務は、賞味期限がすぎたロシア人亡命者や情報屋をまとめる吹き溜まりのような組織〈安息所(ヘイヴン)〉の再建だった。部下のフローレンスとともにロシアの新興財閥(オルガルヒ)の怪しげな資金の流れを探るかたわら、ナットは趣味で続けているバドミントンで彼に試合を申し込んできた一人の若者……ブレクジットやトランプ大統領に不満を抱くエドと交流を深めていく。そんなときスリーパーのロシア人亡命者から、ある大物スパイがモスクワからロンドンへ送り込まれてくると聞かされ、英国秘密情報部はにわかに色めき立つ。
ジョン・ル・カレは、その時々の時代の空気を巧みに作品に活写することで定評のあった作家だが、本作品においても、例えば、「あれは生まれも育ちもギャングのボスだ。市民社会の一部になるのではなく、それをことごとく粉砕するように育てられた」とエドが吐き捨てるように語るトランプ評。あるいは、「プーチンはロシアよ。プーチンはピョートル大帝。(中略)彼は軟弱な西側を出し抜く。われらがロシアの誇りを取り戻してくれる」と誇らしげに語るロシアの大物スパイの言動にそれらが窺える。特に後者に関して、作品の発表からの三年後(この書評は2022年9月に書いている)、プーチンは正にそうしたロシア国民の期待に応えるかのように、ウクライナへ侵攻した。
訳者あとがきによれば、作者は本作品に関するBBCのインタビューの中で、「私のすべての小説で、彼ら(登場人物)はdecent menであることが明らかになる」と述べている。訳者によれば、〝decent〟とは〝大人としてまっとうな〟という意味らしい。
ブレクジット後の対ヨーロッパに関するイギリスとアメリカの密約を偶然知った若者は、激しい義憤に駆られて、ある行動に走る。「彼は金目当てのごろつきなんかじゃなく、真剣にものを考える人間で、ヨーロッパを自分ひとりで救うというクレィージーな使命感を帯びている」……ナットは若者の中にある純粋な信念に良心が突き動かされ、ついには情報部の意に反して、この若者に対して、”decent”を示すのだ。
『寒い国から帰ってきたスパイ』のアレック・リーマス、『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』のジョージ・スマイリーなど、裏切りと陰謀が渦巻く世界にあって、個人と組織の相剋に翻弄されながらも、最後にdecent menであろうとする主人公の姿に我々読者も共感するからこそ、ジョン・ル・カレの作品は時代を超えて読まれ続けているのだろう。