スパイ小説と文学

 一般の人々がスパイ小説に抱くイメージは、007やミッション・インポッシブル(これは小説ではなく、映画だが)に見るような、二枚目のスーパーマン的な主人公が美女を伴って、派手な銃撃戦やカーチェイスを繰り広げ、敵対勢力をやっつける荒唐無稽なものではないだろうか。(それと対局をなす『寒い国から帰ってきたスパイ』のようなシリアスなスパイ小説を知っている人は、もはや一般の人ではなく、れっきとしたスパイ小説ファンである) そのためであろうか、スパイ小説は、概してミステリよりも低くみられがちだ。しかし、そのようなイメージの作品ばかりではなく、読者の胸に迫る作品、中には文学と呼べるようなスパイ小説もある。

 スパイには、後述のエージェントを使って情報収集を行う「ケースオフィサー」(諜報機関の現場又は現地責任者。〝ハンドラー〟と呼ぶこともある)と、ケースオフィサーの指示のもと、実際に組織に潜入して情報収集を行う「エージェント」の二種類がある。

 ケースオフィサーは外交官や駐在武官として身分が保証(リーガル=合法)され、スパイ行為が露見した場合でも、外交特権を利用して逮捕されずに国外へ逃れることができる。

 一方、エージェントは国籍や職業にかかわらず、ケースオフィサーが求める情報に接近できる人物からスカウトされる。彼らは直接、危険を冒して情報源に接するので、発見される危険性も高い。そして、もし捕まった場合、雇い主である政府は外交問題に発展するのを避けるため、よほど価値があるエージェントを除いて、知らぬ存ぜぬを決め込み、彼らはトカゲの尻尾のように見捨てられる。彼らはイリーガル(=非合法)なスパイであるため、もし逮捕された場所が全体主義的な国家だった場合、裁判にもかけられず、拷問のあげく、そのまま抹殺されることもあり得る。家族も友人もいず、常に発見される不安に脅かされている、孤独な使い捨てのエージェント・スパイ。スパイ小説に登場する多くのスパイは、彼らの方である。

 『駅 STATION』(1981年)、『鉄道員』(1999年)など、高倉健とコンビを組んで多くヒット作品を撮った映画監督の降旗康男は、生前、「偉い人、立派な人は撮りたくない。世の中からはじき出された人の中にある美しさ、尊さを描いてこそ映画だと思う」と語っていた。(2019年5月30日、朝日新聞「天声人語」) 小説も同じように、作家は成功した人物や幸福な人物を描くより、失意や哀しみ、嫉妬、怨恨などに苛まれる人物を描きたいものだし、読者もそうした作品の方に惹かれる。そして、そうした苦悩は不安と孤独の中で暮らし、往々にして悲劇的な末路を迎えるスパイ(特にエージェント)の近傍にある。それゆえ、彼らの悲劇的な人生を描いたスパイ小説は、読者の心を揺さぶり、中にはR・ライト・キャンベルの『すわって待っていたスパイ』(1975年)や、グレアム・グリーンの―この作品の主人公は必ずしもエージェントではないが―『ヒューマン・ファクター』(1978年)のような、時代を超えて読者に深い感動を呼び起こす、もはや文学(江戸川乱歩は1951年に著した評論集『幻影城』の中で、同じように殺人事件を扱いながら、ドストエフスキーの『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』が探偵小説ではなく文学である理由として、「文学は人生と取っ組んでその真実を探ろうとしたり、人間世界のあらゆる悲しみ、苦しみ、喜びを描いたり、或は神を語り、又、悪魔を語るもの」と述べている)と言っても過言ではない作品もある。

 スパイ小説は、スパイになった動機、あるいはスパイとして生きることによって背負う孤独や不安を掘り下げた場合、時代を越えた普遍性を持ち、文学となり得る。